日本の政治家猪瀬 直樹いのせ なおき
2022年6月26日、銀座三越前にて
生年月日 (1946-11-20) 1946年11月20日(77歳)
出生地 日本 長野県下水内郡飯山町
(現・飯山市)
出身校信州大学人文学部経済学科
明治大学大学院政治経済学研究科 政治学専攻 博士前期課程
所属政党(無所属→)
日本維新の会
配偶者猪瀬ゆり子(1970年 - 2013年,死別)
蜷川有紀(2018年 - )
公式サイト公式サイト
猪瀬直樹
活動期間1983年 -
ジャンル文芸
ノンフィクション
批評
主題天皇・文学・政治・社会
代表作『ミカドの肖像』(1986年)
『日本国の研究』(1997年)
主な受賞歴大宅壮一ノンフィクション賞(1987年)
ジャポニスム学会特別賞(1987年)
文藝春秋読者賞(1996年)
デビュー作『天皇の影法師』
(1983年)
『昭和16年夏の敗戦』
(1983年)
『日本凡人伝』
(1983年)
影響を受けたもの
清水慎三・橋川文三
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猪瀬 直樹(いのせ なおき、1946年〈昭和21年〉11月20日 - )は、日本の作家、政治家。日本維新の会所属の参議院議員(1期)。日本維新の会国会議員団参議院幹事長。血液型はAB型[2]。妻は女優、画家、映像作家の蜷川有紀[3]。長野県出身。
『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。道路公団民営化推進委員会委員、地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長。東京都副知事、東京都知事(第18代、1期)、大阪府市特別顧問、東京工業大学世界文明センター特任教授、東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、国際日本文化研究センター客員教授を歴任した。 長野県下水内郡飯山町(現在の飯山市)生まれ。2歳半から長野市に移る。 父は飯山市、母は松本市出身で、両親とも小学校教師だった。諏訪市の諏訪市立高島小学校で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。長野市内では往生寺のすぐ下に住んでいた。1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した[4]。 信州大学教育学部附属長野小学校、信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校、信州大学人文学部経済学科を卒業した。在学中は社会主義運動理論家の清水慎三ゼミに所属し、新左翼学生運動の指導者として通称「白ヘル」(中核派)に属した[5]。1967年の羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエルの10.21国際反戦デー闘争や佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした[6]。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。 大学卒業後、上京し結婚した。出版社勤務などを経て、1972年に明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程で政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究した。ナショナリズム研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという[6]。 その後、アルバイトを経て[7]、作家活動に転じる。1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞を受賞した。1996年、財政投融資が役人の天下り先を支える構造を告発し、道路公団民営化の端緒となった『日本国の研究』により、文藝春秋読者賞を受賞した。 2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任した。2007年、地方分権改革推進委員会委員に就任した。 2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授、2006年から2010年まで東京工業大学世界文明センター特任教授をそれぞれ務めた。 2012年3月26日、マラソン初挑戦にして東京マラソンを6時間40分で完走した。
来歴・人物