猪俣津南雄
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猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年4月23日 - 昭和17年(1942年1月19日)は、日本経済学者マルクス経済学労農派の論客の一人。
経歴

新潟県新潟市生まれ。長岡中学を卒業のころ生家が没落し、苦学して早稲田大学専門部政治経済学科の三学年に編入し、1913年に卒業後研究科に進学、東京外国語学校の夜間にも通う[1][2]。郷里の篤志家の援助を受けて、1915年に渡米、ウィスコンシン大学の大学院などで農業、経済学、哲学を学び、1921年に帰国すると早稲田大学講師となり、経済学史と農業政策を教える[2]。翌年結成された日本共産党に入党するが、検挙され、早大も辞職。再建後の共産党には、見解の相違から入党しなかった。1928年には日本大衆党に入党するが、翌1929年5月16日、党の統制を紊乱したとして他の幹部4人とともに除名処分にされた[3]山川均らと対立が背景にあった。

在野の学者として、農業問題を中心に論文を発表し続ける。

1937年の人民戦線事件で検挙されるが、腎臓炎悪化のため1939年に執行停止し入院。その後妻と別府温泉佐渡島で療養したが、1942年に尿毒症の発作により青山の自宅で死去[4]
家族

アメリカ滞在中に大学院の同級生として知り合ったベルタ・ゲール(Bertha Gehr)と結婚するが、のちに離婚。ポーランド系と言われる東欧系ユダヤ人のアメリカ移民であるベルタは共産主義者で、猪俣がアメリカでマルクス主義に近づき、当地の社会主義者と交流を深めるきっかけを作った[5]片山潜の助手だった田口運蔵は「猪俣の妻は、ロシア生まれで米国で教育を受け、ニューヨークのロシア移民学校の教師をしていた」としている[6]。1920年代初頭に片山とベルタに遭遇した東欧系ユダヤ人の劇作家ショーレム・アレイヘムは、ベルタをロシア系ユダヤ人と記し、見た目がまるで日本人のようで驚いたと書いている[7]。猪俣が帰国の際に一度別れたが、その後来日し、猪俣が拘留中の1938年に正式に離婚、帰国費用を含むしかるべき金額を猪俣の支援者から受け取り帰国した[5][4]

ベルタと離婚した翌月、長い間実質的な妻であった『婦人公論』の元編集者・大塚倭文子(1905-1974)と再婚する[4]。倭文子は高瀬真卿柳橋の芸者の子で、父親が没したため進学を諦めて17歳で中央公論社で働きはじめ、18歳で当時常連執筆者だった猪俣の愛人となり、猪俣没後に猪俣の弟子である高野実と再婚し、高野孟津村喬の兄弟を儲けた[8][9]。次男の津村はのちに父親と猪俣津南雄研究会を発足[8]。倭文子の父方叔父に小山松吉、その孫に山下洋輔
著書
単著

『金融資本論』希望閣、1925年4月。
NDLJP:1021068。 

『金融資本論』(3版)希望閣、1925年11月。NDLJP:926088。 

『金融資本論』(5版)希望閣、1926年5月。NDLJP:2127206 NDLJP:2386220 NDLJP:2389698。 

『金融資本論』改造社〈改造文庫 第1部第21篇〉、1929年2月。NDLJP:1464943。 

『金融資本論』彰考書院、1948年6月。NDLJP:1273881。 

『金融資本論』改造図書出版販売〈改造文庫覆刻版 第1期〉、1977年2月。 


『現代日本ブルヂョアジーの政治的地位』南宋書院、1927年12月。NDLJP:1279271。 

『日本無産階級運動の批判 コミンタンの批判を読みて』無産社〈無産社パンフレット 16〉、1928年1月。NDLJP:1086407 NDLJP:1439817。 

『帝国主義研究』改造社、1928年1月。NDLJP:1445470。 

『現代日本研究 マルクシズムの立場より』改造社、1929年9月。NDLJP:1268722。 

『日本無産階級の戦略』文芸戦線出版部〈文芸戦線叢書 第6篇〉、1930年5月。NDLJP:1444020。 

『没落資本主義の「第三期」 日本資本主義は没落しないか?』大衆公論社、1930年9月。NDLJP:1280520。 

『日本の独占資本主義 特に金融資本の恐慌対策』南北書院、1931年10月。NDLJP:10298518。 

『恐慌下の日本資本主義』改造社〈経済学全集 第33巻〉、1931年11月。NDLJP:1272271。


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