猪俣公章
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猪俣 公章
生誕 (1938-04-11) 1938年4月11日
日本 福島県河沼郡会津坂下町
死没 (1993-06-10) 1993年6月10日(55歳没)
学歴日本大学芸術学部音楽科
ジャンル演歌歌謡曲
職業作曲家作詞家
活動期間1966年 - 1993年

猪俣 公章(いのまた こうしょう、1938年昭和13年〉4月11日[1] - 1993年平成5年〉6月10日)は、日本作曲家作詞家福島県河沼郡会津坂下町出身[1]

本名は同じ漢字表記で「いのまた きみあき」と読む[1]
経歴・人物

旧制京都帝国大学工学部電気工学科出身で東北電力勤務の父と、福島市で料亭を経営する母の間に生まれた。家は猪俣総本家であった。

小学5年生の頃から作曲をするようになり[1]、中学時代に作曲家を志望する[1]。中学卒業後は上京して開成高等学校に進学。高校卒業後は実家の家計が苦しくなったため、入学金を稼ぐために1年間の浪人生活を選ぶ。喫茶店のボーイ、ペンキ職人、バーテンダーなどで入学金を稼いだ。

1958年日本大学芸術学部音楽科へ入学[1]。入学後は新橋銀座キャバレーでバンド演奏のアルバイトを務め、ベースを担当。大学3年次の1960年古賀政男が設立したプロダクションにスタッフとして採用され、事実上の門下生として師事。大学卒業後の1962年ビクターレコードと契約。

1964年、鈴木やすし『僕の手でよかったら』作曲家デビュー[1]1966年森進一のデビュー作にしてヒット作となった『女のためいき』を作曲、その後も森に『ひとり酒場で』『港町ブルース』『おふくろさん』『波止場町』『冬の旅』『さらば友よ』などの大ヒット曲を提供する。他にも水原弘『君こそわが命』、藤圭子『女のブルース』『京都から博多まで』『別れの旅』、内山田洋とクール・ファイブ『噂の女』、テレサ・テン『空港』、五木ひろし『千曲川』、海原千里・万里『大阪ラブソディー』など数多くのヒット曲を提供して成功を収めた。

また、野村将希『一度だけなら』、石川さゆり『かくれんぼ』などデビュー曲を提供した。

中でも坂本冬美『あばれ太鼓』やマルシア『ふりむけばヨコハマ』を内弟子として育て上げデビュー曲を提供した。

その他、歌手だけでなく、里村龍一冬樹かずみなど、音楽作家の育成にも力を注いだ。

1991年に19歳年下の一般女性と結婚し一子をもうけるも[1]1993年肺がんのため死去した[1]。55歳没。
主な作品

女のためいき(1966年、作詞:吉川静夫、歌:森進一)※森のデビューシングル

君こそわが命(1967年、作詞:川内康範、歌:水原弘

情愛 (歌:水原弘)

午前四時のブルース (歌:水原弘)

ひとり酒場で (1968年、作詞:吉川静夫:森進一)

神戸の夜 (1968年、作詞:吉川静夫、歌:森進一)

女の爪あと (1969年、歌:水原弘)

流れ花 (1969年、歌:水原弘)

別れてもありがとう(1969年、歌:美空ひばり

港町ブルース(1969年、作詞:深津武志、歌:森進一)

気にかかる(1969年、歌:園まり

鳴門海峡(1969年、歌:三橋美智也

花と炎(1970年、歌:美空ひばり)

恋ひとすじ(1970年、歌:森進一)

一度だけなら(1970年、作詞:山口洋子、歌:野村将希)※野村のデビューシングル

女のブルース(1970年、作詞:石坂まさを、歌:藤圭子)※オリコン8週連続1位

涙のブルース(1970年、作詞:石坂まさを、歌:藤圭子)※アルバム『女のブルース』収録

噂の女(1970年、作詞:山口洋子、歌:内山田洋とクール・ファイブ

おふくろさん(1971年、作詞:川内康範、歌:森進一)

大阪女のブルース(1971年、作詞:石坂まさを、歌:藤圭子)※アルバム『さいはての女』収録

盛り場流し唄(1971年、作詞:石坂まさを、歌、藤圭子)※アルバム『さいはての女』収録

故郷は地球(1971年、作詞:佐々木守、歌:柴俊夫ハニーナイツ)※『シルバー仮面』主題歌

戦え!シルバー仮面(1971年、作詞:上原正三、歌:ハニーナイツ)※『シルバー仮面』挿入歌

渡り鳥いつ帰る(1971年、作詞:阿久悠、歌:北島三郎

歳月(1971年、作詞:藤田まさと、歌:鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

命あればこそ(1971年、作詞:山口あかり、歌:鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

京都から博多まで(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子)

街の子(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子)

別れの旅(1972年、作詞:阿久悠、歌:藤圭子)

花のブルース(1972年、作詞:石坂まさを、歌:藤圭子)※アルバム『別れの旅』収録


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