「厳美渓」とは異なります。
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 猊鼻渓 猊鼻渓周辺の空中写真。画像右側(東)より左方向(西)へ流れる砂鉄川が、カルスト台地を東西に貫いて侵食し、深い谷が形成されている様子が分かる。1977年撮影の2枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真
猊鼻渓(げいびけい)は、岩手県一関市東山町にある砂鉄川沿いの渓谷。目次 岩手県で最初(1923年10月8日)に、国の名勝に指定された。全長2キロメートルで、高さ50メートルを超える石灰岩の岸壁が連続、至る所に奇岩や流れ落ちる滝が点在し、付近と同様に鍾乳洞も見られる。名称の由来は峡谷出口近くに位置する、侵食された鍾乳石が獅子の鼻に似ていることから名付けられた。(猊とは獅子のこと) 東北の耶馬渓と謳われる。船頭が謡う猊鼻追分を堪能しながらの舟下りを楽しめることから、観光地として人気がある。紅葉の他、藤の名所としても名高い。観光客が乗船するのは手漕ぎ船である。 船は川を遡る方向に出発する(船着場を下った先には砂防ダムがあり、船では下れない)が、日本国内の河川観光地では珍しい、乗客が手漕ぎ船で川を上る観光地でもある(長瀞ライン下りは下りのみ、最上川舟下りは近距離のコースのみが川を上るが船外機付きの船)。船頭がこのくだりを解説し、団体客などの多人数乗船で船頭2名で運行する際は「1人で船を漕いで歌うのはとても疲れるから船頭2人体制です」と笑いを誘うのが定番である。 ほとんどの箇所では水面下が大人の膝丈?股下ほどと水深が浅く、流れも非常に緩やかではあるが、他のイベント乗船同様、救命胴衣の着用が必要となった。 なお同市内の西部、磐井川沿いには名称が類似した厳美渓という景勝地があり、こちらも国の名勝及び天然記念物に指定されている。 猊鼻渓が、名勝保存の指定を受けたのは1924年(大正14年)である。明治以前は、絶対の秘境とされていた。同じ村に住んでいて、その処を知らぬ人さえ、かなりあったと伝えられている。 この仙境を隠したのは、旧藩時代、たまたま藩吏などが探勝に来る度に、いつも地方民は多大の労力を強いられたので、人々はその負担に堪えかねて、風土記にも、絵画図にも表さなかった。1775年(安永4年)安永風土記の「長坂村お書上げ」には、砂鉄川が「大原川」と記載されているが、肝心の猊鼻渓については、長坂村、同村・本郷のどちらの「お書上げ」にも記載されていない。一関市大東町渋民の芦東山ですら足を運んでいない。 佐藤猊巌(さとう げいがん)は父佐藤洞潭(さとう どうたん)の志を継ぎ、師の岡鹿門を招くとともに、猊鼻渓の開発を唱え、下記の文人墨客を招いた。
1 概要
2 歴史
2.1 猊鼻渓を訪れた文人墨客
2.2 猊鼻渓開発の成就
2.3 猊鼻渓の名称はいつ頃つけたのか
3 交通
4 ギャラリー
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
概要
歴史
猊鼻渓を訪れた文人墨客
岡鹿門 (おか ろくもん) 漢学者
蓑虫山人 (みのむしさんじん) 画家