学校法人獨協学園
Dokkyo Group of Academic Institutions
法人本部が所在する獨協大学中央棟
創立者西周・桂太郎・加藤弘之ら
団体種類学校法人
設立1951年3月10日 [1]
所在地 日本 埼玉県草加市学園町1-1
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度50分23.5秒 東経139度47分39.6秒 / 北緯35.839861度 東経139.794333度 / 35.839861; 139.794333
学校法人獨協学園(がっこうほうじんどっきょうがくえん)は、日本の学校法人。獨協大学、獨協医科大学、姫路獨協大学など諸学校の設置者である。 埼玉県草加市に本拠を置く学校法人獨協学園の源流は、19世紀に遡る。当時世界の最尖端であったドイツ文化を取り入れるため、国策で1881年9月18日、独逸学協会(ドイツがくきょうかい; Verein fur deutsche Wissenschaften)が東京麹町に設立された。国策機関ということもあって初代総裁は北白川宮能久親王が就任している。1883年には獨逸学協会学校が開設された。 独逸学協会には西周や加藤弘之などの啓蒙学者が設立に関与したため、建学の精神的支柱にドイツ啓蒙主義を置いていた。他にも、品川弥二郎、井上毅、青木周蔵、桂太郎、平田東助、伊藤博文[5]ら明治時代の政治や外交の第一線で活躍した面々も名を連ねている。中でも学校運営を中心的に担っていたのは品川弥二郎とされている[6]。当初は普通科のみで翌年からは上級教育を行う専修科が設置された[注釈 1][5]。また、宮内省から後に文部省と司法省から補助金が出ていた(ただし、その額は決して多くはない[7])。こうした配慮によって独逸学協会学校専修科は九大法律学校の1つに数えられるようになる。だが、帝国議会開始後に財政難と民党の反対によって政府からの補助金が打ち切られたこと、文部省が帝国大学においてドイツ学を充実させる方針(東京帝国大学における独法科・独文科設置)に転換して、私学にあたる獨逸学協会学校を支援することに消極的になったこと、協会幹部や歴代校長が政府高官や著名な学者(初代:西周・2代:桂太郎・3代:加藤弘之)が占められて長期的な視野で経営できる経営者がいなかった[8]こと、設立経緯から官吏育成を目的としていたが、実際には高等文官試験における帝国大学出身者並みの待遇が実現されず、結果的に有松英義ら数名しか合格できなかったことによって[9]専修科存続の意義は無くなったと判断されて1895年に専修科は廃止されて組織は東京帝国大学独法科に吸収された。これによって後に民間への人材輩出に力を注いで私立大学へと発展した他の法律学校とは違う方向に向かうことになる。その後、4代校長には教員出身のドイツ語学者大村仁太郎が起用されて中学校としての道を歩むことになった。
沿革獨逸学協会会長・総裁の北白川宮能久親王。
略歴