狩野派
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狩野永徳筆『唐獅子図』宮内庁三の丸尚蔵館狩野永徳筆『花鳥図襖』聚光院

狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。

室町幕府御用絵師となった狩野正信狩野氏の祖・藤原南家工藤茂光の子の狩野宗茂の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は織田信長豊臣秀吉徳川将軍家などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
概要狩野秀頼筆『高雄観楓図』東京国立博物館

狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである[1][2]

狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた初代狩野正信とその嫡男・狩野元信、元信の孫で安土城大坂城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、江戸城二条城などの障壁画制作を指揮した狩野探幽、京都にとどまって「京狩野」と称された一派を代表する狩野山楽などが挙げられる。

江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派(江戸狩野)は、幕府の御用絵師として内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、葛飾北斎や写生を重んじることで知られる円山四条派琳派など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう[3]

芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない[4]。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の尾形光琳渡辺始興酒井抱一、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいる[5]

なお、岩佐又兵衛も狩野派に学び狩野内膳の弟子になったとされるが詳細は不明[6]。また、江戸狩野の一派で表絵師・深川水場町家の狩野一信(梅笑)は増上寺の『五百羅漢図』で知られる狩野一信とは別人である[7]
歴史
室町時代狩野正信筆『周茂叔愛蓮図』
九州国立博物館国宝狩野元信筆『白衣観音図』
ボストン美術館

狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信(1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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