狩野探幽
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狩野 探幽

本名山城国
誕生日慶長7年1月14日(1602年3月7日)
死没年延宝2年10月7日(1674年11月4日
死没地江戸
国籍 日本
流派狩野派
代表作二条城障壁画、名古屋城障壁画
影響を受けた
芸術家雪舟 狩野永徳
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狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日1602年3月7日) - 延宝2年10月7日1674年11月4日[1])は、江戸時代初期の狩野派(江戸狩野)の絵師。父は狩野孝信狩野永徳の次男)、母は佐々成政の娘。法号は探幽斎、は守信。早熟の天才肌の絵師と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。
生涯

慶長7年(1602年)、狩野孝信の長男として京都で生まれる。尚信安信は弟、姉は狩野信政に、妹は神足高雲(常庵・守周)に嫁いだ。また久隅守景の妻国は姪、狩野寿石は甥または孫、江戸幕府3代将軍徳川家光正室御台所鷹司孝子は母方の従姉に当たる。子に探信(守政)、探雪、狩野信政室、養子に益信[* 1][4][5]

慶長17年(1612年)、駿府徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城二条城名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い。

元和9年(1623年)、狩野宗家を嫡流の従兄・貞信の養子として末弟安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、50歳を過ぎてから実子守政と探雪が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、6代後の子孫である狩野探信(守道)とその弟子沖一峨を僅かな例外として殆どなかった。

探幽の作品は制作年代(署名の形式の変化)により、誕生から34歳までの「宰相・釆女(うねめ)時代」、34歳から60歳までの「斎書き時代」、60歳から死没までの「行年(こうねん)時代」の三期に分けられる[6]

延宝2年(1674年)、死去。享年73(満72歳没)。戒名は玄徳院殿前法眼守信日道。墓所は池上本門寺。墓の形は、瓢箪を象っている。弟子も多く、久隅守景、神足高雲、桃田柳栄(守光)、尾形幽元(守義)ら探幽四天王に加え、京都で鶴澤派をおこした鶴澤探山会津藩御用絵師となった加藤遠澤など。
評価

若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨などを主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出した。探幽は、画面地を一つの不透明で均質な平面と考え、そこに山水や人物が描かれることによって生じる絵画空間とは次元の異なる意味を持たせようとした。絵画空間にはモチーフが断片的にしか描かれていなくても、地の素材に由来する安定した均一性によって、画面に堅固な統合性を与えている。この画法は、描かれた部分のみ見ると、筆致が荒く、モチーフの形も中途半端な粗雑な画に見える。しかし、濃墨ではなく最も薄い墨色で表された部分に注目して、薄墨と画面地との間に暗示される景観の展開を想像で補いながら追うと、薄墨と画面地の間に柔らかい光を帯びた、深く潤いに満ちた景観が立ち上がってくる[7]

この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能である。その一方、大和絵の学習も努め、初期の作品は漢画の雄渾な作画精神が抜け切れていないが、次第に大和絵の柔和さを身に付け、樹木や建物はやや漢画風を残し、人物や土波は大和絵風に徹した「新やまと絵」と言える作品も残している。江戸時代の絵画批評では、探幽を漢画ではなく「和画」に分類しているのは、こうした探幽の画法を反映していると云えよう。粉本主義と言われる狩野派にあって探幽は写生も多く残し、尾形光琳がそれを模写しており、また後の博物画の先駆と言える。

探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されている。
ギャラリー

四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)名古屋城障壁画(上洛殿三之間)

桐鳳凰図(六曲一双)サントリー美術館

四季松図(六曲一双)大徳寺

春景図 フリーア美術館 1672年作

徳川家康像 大阪城天守閣蔵

主な作品

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款印章文化財指定備考
渡唐天神図紙本墨画1幅86.7x29.3松井文庫
1614年(慶長18年)最初期の作品の1つ。
義朝最期・頼朝先行供養図絹本著色双幅225.5x173.8(各)大御堂寺若年期の作義朝最期図のみ「守信」朱文壺形印重要文化財義朝最期図の長田忠致邸の部分は、「酒飯論絵巻」から借用している[8]
二条城障壁画二条城二の丸御殿1626年(寛永3年)重要文化財
三十六歌仙図額板絵着色額装34面各43.8x29.0筑波山神社1633年(寛永10年)
名古屋城障壁画名古屋城本丸御殿1634年(寛永11年)重要文化財
三十六歌仙図額板絵金箔地著色18面各70.2x51.7静岡浅間神社1634年(寛永11年)静岡県指定文化財家光が浅間神社造営に際して奉納したもの。書は青蓮院尊純法親王の筆。
三十六歌仙図額板絵金箔地著色36面各55.8x38.4静岡浅間神社1634年(寛永11年)かつて静岡浅間神社内、賤機山上の麓山神社にかかげられていたもの。書は同じく青蓮院尊純法親王の筆。
田園風俗図屏風紙本金地著色四曲一双各96.9x358.0高津古文化会館1635年(寛永12年)以前
春屋宗園堺市博物館1636年(寛永13年2月)賛玉室宗珀・江月宗玩賛
堀直寄像絹本著色1幅75.0x31.3新潟県立歴史博物館1636年(寛永13年7月)賛無「藤」朱文方印玉室宗珀・沢庵宗彭・江月宗玩賛。|「藤」朱文方印は現存しているが、実際に使用された作品は珍しい[9]
伊達政宗甲冑像紙本著色1幅92.6x29.5仙台市博物館1636年(寛永13年)以前無款記「采女」朱文円印仙台市指定文化財政宗自筆短冊「むさし野の月 出るより入山端はいつくそと 月にとはまし武蔵ノノ原 政宗」[10]
和歌懐紙「咲時ハ」紙本墨画淡彩1幅33.8x62.2登米市教育委員会1636年(寛永13年)以後無款記「采女」朱文円印登米市指定文化財政宗自筆和歌「咲時ハ 花の数にハ あらねとも 散にハもれぬ 山さくらかな」の下に、探幽が政宗の後ろ姿を描いた作品。江月宗玩賛。政宗の死後に、政宗に仕えた茶人・清水道閑の依頼によって制作[11]
八尾狐図紙本淡彩1幅109.3x56.3個人1637年(寛永14年)春日局が書いたとされる『東照大権現祝詞』(1640年(寛永17年))にある徳川家光の霊夢を図像化した作品。家光が病の時、江戸城二の丸東照宮から「八尾の狐」が現れ、病が回復する事を告げて去るという夢を見て、家光はこれを絵像に描かせたという。本作は右上に家光自筆で「十月九日」の日付と「家光」黒印があり、左上に天海筆で「寛永十四年」の年記と花押がある。裏書きには浅草寺別当忠尊が、『東照大権現祝詞』と同様の話と、絵師が狩野采女こと探幽だと記している。元は紅葉山東照宮にあったと思われるが、明治維新後の紅葉山東照宮撤去時に流出したものと考えられる[12]


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