狩野忠正
生誕 (1938-03-02) 1938年3月2日
日本(現・ 韓国)・全羅南道麗水
死没 (2018-05-30) 2018年5月30日(80歳没)
国籍 日本
出身校神戸大学
職業建築家
受賞後述
所属狩野忠正建築研究所
竹中工務店設計部
建築物後述
狩野 忠正(かのう ただまさ、1938年3月2日[1] - 2018年5月30日[2])は、日本の建築家、狩野忠正建築研究所代表、竹中工務店プリンシパルアーキテクト[3][4]、神戸大学、大阪芸術大学教授。 1938年に、当時日本統治下にあった朝鮮の全羅南道麗水(現・大韓民国内)で生まれる[5][4]。終戦後、佐賀県の唐津港に引き揚げ、両親の実家のあった長崎県島原市に移り住む[5]。小学5年生までを島原で過ごした後、兵庫県明石市に再度転居した[5]。建築家を目指したのは幼少期に岡山県の閑谷学校を訪問してその建物を見たことが原点であると回想している[5]。 1962年に神戸大学工学部建築学科(堯天義久研究室)を卒業して竹中工務店に入社し、設計部に配属された[5][4]。竹中工務店では岩本博行に師事する[5]。 1960年代後半には、西澤文隆の実測調査の影響で安藤忠雄と日本各地の茶室を実測に回り、その経験が後の設計活動に生かされたという[6]。 1981年「三輪そうめん山本本社」にて、第6回吉田五十八賞を受賞した[3][4]。 1984年10月18日に村野藤吾と狩野が誌面の企画で対談し、翌月11月26日に村野が死去した。この対談が村野の生前最後のインタビューとなり、近畿建築士会協議会機関紙「hiroba」1985年1月号に掲載された[7]。 1989年 竹中工務店設計部長、1994年 同社プリンシパルアーキテクトとなる[3][4]。1995年に独立して、狩野忠正建築研究所をベルリンと大阪市に設立した[8][4]。 1997年に神戸大学工学部建築学科教授に就任し、2001年に名誉博士号を授与された[3][4]。 2001年には、大阪芸術大学大学院芸術制作研究科教授に就任し[4]、翌年には芸術学部環境デザイン学科教授・学科長となる[9]。2008年から2011年の間は大学院客員教授となっていた[3][4]。 2018年5月30日、誤嚥性肺炎により死去(満80歳没)[2]。死去から2か月後の7月29日に「偲ぶ会」が大阪市内で開かれ、安藤忠雄らが出席した[10]。 その他、狩野忠正建築研究所設立以前の竹中工務店時代に、建築資料室として発表した作品が複数存在する[11]。 ※以下の出典は、全て『建築人』No.610[12]。
来歴
主な作品・受賞歴
竹中工務店設計部
ショーズビル
ダイエー鹿児島ショッパーズプラザ
塩野義製薬福島分室
ユニチカオークタウン
清和台センターモール(1980年 商空間デザイン奨励賞)
百合学園聖母幼稚園
三輪そうめん山本本社(1981年 吉田五十八賞、1984年 BCS賞、2014年JIA25年賞)
播磨屋本店円山店(1989年 BCS特別賞、1990年 日本建築士会連合会優秀賞、同大阪府知事賞、2012年 JIA25年賞)
京都四条通りアーケード
梅花学園澤山記念館(1990年 日本建築士会連合会優秀賞)
伊丹アイフォニックホール
YHP神戸事務所
奥郷屋敷