狩野常信
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狩野 常信(かのう つねのぶ、寛永13年3月13日1636年4月18日) - 正徳3年1月27日1713年2月21日))は、江戸時代前期の画家で、江戸幕府に仕えた狩野派(江戸狩野)の御用絵師。木挽町狩野家2代目。父は狩野尚信、母は狩野甚之丞の娘(または家女とも)[1]。幼名は三位、右近と称し、養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人などと号した。妻は狩野安信の娘。子に長男周信(木挽町狩野家3代)、次男岑信(浜町狩野家初代)、三男甫信(浜町狩野家2代)、娘(狩野探信室)。
略伝

京都出身。慶安3年(1650年)4月に父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年12月剃髪、養朴と号し3代将軍徳川家光にお目見え、後に徳川家綱の御用を勤めた。父の没後は伯父の狩野探幽に画を学んだとされる。古来より狩野元信狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、狩野派内での地位が上がるのは遅かった。これは叔父で妻の父でもある狩野安信に疎んじられたからだと言われる[2][3]

こう捉えられたのは、結婚・養子縁組で探幽・安信兄弟と繋がりが出来た狩野益信と立場を比較され、しばしば狩野派内部での序列が彼と入れ替わっているからであり、承応3年(1654年)の内裏障壁画制作における画家の地位は探幽の養子だった益信が常信より上だったが、寛文2年(1662年)の再度の内裏障壁画制作で両者の地位が逆転し、別家を立てて探幽の養子でなくなった益信は常信より下になっている。探幽亡き後の延宝3年(1675年)の内裏障壁画制作では再び益信が常信より上の地位に戻ったが、これは安信の長女・次女がそれぞれ益信・常信に嫁いでいた関係からであり、狩野派では主導者との関係によって画家の序列が決まることが慣例だった[2][4]

その間に中院通茂に和歌を学び、幕末に著された『古画備考』や『文翰雑編』には多くの歌が収録されている[5]。また、徳川光圀の愛顧を得て、近衛家熙の言行を記録した『槐記』には、しばしば近衛家の画事を勤めた記事が載る。その一方で、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。印章にも凝り、その数は150夥にも及んだという。そうした甲斐もあってか、天和2年(1682年)に20人扶持を拝領、同年朝鮮通信使に贈る屏風二双を制作、更に訳官・洪世泰の肖像画を描いた。洪世泰は常信の画を「絶代奇筆」と最大限の賛辞を送った。宝永元年(1704年)10月12日、孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼に叙される[6]。同5年(1708年内裏造営で賢聖障子を描き、翌6年(1709年)11月3日に前年の画事と江戸城修理の功績を賞され中務卿法印位を得て、翌年12月19日には200石を加増された[6]。正徳元年(1711年)の通信使来日の際には、前より増えた屏風三双を手掛けた。墓所は池上本門寺

弟子に常信門下四天王と呼ばれた新井寒竹常償(津軽藩御用絵師)、長谷川養辰常時、大石古閑常得、永井慶竺常喜(薩摩藩御用絵師)をはじめ、福岡藩御用絵師の上田永朴など。
画風

画風は探幽に学んだためか、探幽のそれに近い。探幽様式の絵師の殆どは探幽の描き方を上辺だけなぞり、余韻がなく平板でつまらない絵となることが多いが、常信は探幽の意図を理解し再現できる画力をもった数少ない絵師である。ただし両者を比較すると、常信には探幽のような幽遠さは無いが、モチーフの位置関係の整理・合理化、装飾性の増加と細密化が指摘でき、より明快で華やかな印象な画面となっている。幼少期に亡くなった父の影響もあると見られ、『波濤水禽図屏風』には波が幾重にも整然と繰り返して描かれるような趣があるとされ、形態や繰り返しに関心が向くのは父の絵と共通する[7]。また、若年から壮年期には狩野永徳に学んだと思われる力強い大作が複数残っている。一方、常信は多くの古画粉本を蓄え、200石という他の奥絵師家を超える知行地を得るなど、狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される。反面、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった[3]
代表作

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款備考
東照大権現大猷院慈眼大師板絵板地著色1面43.0x88.0輪王寺1652年(慶安5年)款記「慶安五年八月一七日 狩野右近藤原常信画之」[8]
日蓮聖人像絹本著色1幅102.8x58.0香川県三豊市本門寺1654年承応3年)香川県有形文化財(絵画)
歌意名所絵図巻千葉市美術館1665年(寛文5年)款記「藤原常信書之」/「常信」朱文瓢箪印
楼閣山水図紙本墨画襖12面玉林院1669年(寛文9年)本堂礼の間所在
雑画巻個人1674年延宝2年)
源氏物語図屏風紙本金地著色6曲1双170x379(各)イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館1677年(延宝5年)
最嶽元良絹本著色1幅146.7x57.2金地院1690年(元禄3年)款記「藤原常信画之」徳川光圀[9]
演能図・竜頭観音図杉板金地著色絵馬2面121.0x182.5(各)高崎市・清水寺1692年(元禄5年)観音図のみ:款記「常信筆」/「狩野常信」白文方印高崎市指定文化財。高崎藩安藤重博奉納[10]
織田信長像紙本著色1幅115.1x44.5總見寺1694年(元禄7年)賛款記「追法印永徳図常信書之」/「藤原」白文方印愛知県指定文化財。天倫宗怱(大徳寺第218世、当時は東海寺住持)賛。施主は織田貞置狩野永徳筆の信長像(大徳寺所蔵)の模写[11]
池田綱政像1幅岡山市曹源寺1698年 (元禄11年)綱政自賛。翌年6月、綱政が曹源寺に奉納。
徳川光圀像絹本著色1幅徳川博物館1701年 (元禄14年)無款記/「養朴」朱文方印光圀が没した翌年に常信が描いた肖像画に、長年光圀と交流のあった高僧・奥山玄建の依頼により、南禅寺第285世雲叟元云(通応禅師)が賛[12]
柳沢吉保像絹本著色1幅山梨・一蓮寺常光寺、個人1702年(元禄15年)賛は翌年吉保自身による。常信は当時老中として権勢を振るっていた堀田正俊と親しくしていたが、正俊が稲葉正休に暗殺されると、常信は最大の庇護者を失う。また、かつて常信が正俊と魚捕りに同行していたことが、生類憐れみの令を推進していた徳川綱吉の耳に入って常信に絵を依頼しなくなり、周囲も綱吉を憚って常信に仕事の依頼が頼まなくなってしまう。そんな時、柳沢吉保が常信を庇い執り成してくれたことで、綱吉は常信に絵を注文し、法眼の位を与えられるまでになった、という逸話が残る[13]
波涛・花鳥図紙本著色金泥6曲1双151.6x351.8(各)静岡県立美術館法眼時代
雲龍図・渓流図紙本墨画襖8面・4面龍門寺姫路市)法眼時代共に、款記「法眼養朴筆」/白文方印「養朴」龍門寺には他にも、周信・典信惟信と木挽町4代に渡る障壁画が残されており、このような例は非常に珍しい[14]
瀟湘八景図帖紙本墨画淡彩陽明文庫法眼時代落款「法眼養朴筆」近衛基熙和歌染筆


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