狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日(1635年9月30日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪の養父。
狩野一族ではないが狩野永徳の門下に入り改姓、永徳亡き後は豊臣秀吉・秀頼父子の2代に渡り絵師として豊臣氏に仕えた。そうした経歴が災いして窮地に陥るも九条幸家らの助命嘆願で救われ、彼を中心とする関係者に作品を提供する一方で江戸幕府からの注文もこなし、障壁画・屏風に永徳風の作品を残した。江戸へ移った狩野派と疎遠になり、京都に留まった山楽の子孫は京狩野と称された。
経歴
狩野派の門下に入るの子・木村光頼として[1]近江国蒲生郡に生まれる。幼名は平三。『本朝画史』とは別に、永納が提供した情報を参考にして寛文9年(1669年)に林鵞峰がまとめた史料である『狩野永納家伝画軸序』でも山楽の出自が記され、母は伝承では益田氏、山楽は佐々木氏の末裔かと記されている[2]。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた[1][3]。
天正元年(1573年)の15歳の時、浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え[1]、秀吉の命により狩野永徳門下となる[1][4]。『本朝画史』では秀吉の命で永徳と父子の義を結び狩野姓を許され、修理亮を称したが、それが何時なのかは分かっていない[3][5][6]。また山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。
天正年間に正親町上皇の仙洞御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わったとされ、天正14年(1586年)に完成した御所の障壁画で永徳の作品と考えられている絵は『群仙図襖』、山楽が描いた可能性がある絵は『松に麝香猫図襖』と見られている[7]。また天正18年(1590年)に永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると(9月14日に死去)、秀吉の命で山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが窺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)[* 1][10][11]。永徳作『檜図屏風』についても、永徳と山楽それぞれの作品との比較から山楽作ではないかとされている[12][13][14]。 以後、豊臣氏の関係の諸作事に関わり、大坂に留まって制作に励んだ。秀吉が建てた伏見城障壁画制作に関わったとされるが、伏見城は慶長5年(1600年)に伏見城の戦いで破損、徳川家康が再建した伏見城の障壁画制作にも参加したという。慶長10年(1605年)頃に建てられた本丸御殿の障壁画が山楽作と考えられ、本丸御殿が伏見城廃城で大坂城、南禅寺塔頭金地院を経て承応2年(1653年)に正伝寺方丈として移築されると、障壁画も正伝寺に移され山水図として現存している[10][15][16]。秀吉の息子豊臣秀頼にも仕え、慶長5年に秀頼が再興した四天王寺の聖徳太子絵伝壁画を制作(現存せず)、慶長11年(1606年)に同じく秀頼が再興した金剛寺に三十六歌仙扁額を描いた。他の作品は、慶長19年(1614年)6月1日に安養寺喜兵衛が豊国神社に奉納した『繋馬図絵馬』(現妙法院)が挙げられる[10][17]。この大坂住まいの頃から山楽を号したとされるが、時期は明らかでない[* 2]。 一方、狩野派本家との繋がりも保たれていることが確認され、土佐派関係の文書『土佐家文書』に土佐光吉へ宛てた山楽の書状が5通あり、年代は不明だが内容からある程度特定されている。書状は秀頼の意向を受けた片桐且元が指揮した『平家物語屏風』に関わる内容が書かれており、山楽は永徳の長男狩野光信の指揮下で仕事をしていたこと、光吉には書状で仕事を報告していることから、屏風は彼等との共同制作で進めていたことが確認されていて、書状が書かれた時期の下限は光信が京都を離れて江戸へ向かう1年前の慶長10年、上限は且元が秀頼の家老になる慶長6年(1601年)と特定された[21]。書状の時期は慶長9年(1604年)とする解釈もあるが、大阪芸術大学教授五十嵐公一
豊臣氏絵師として活動
豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる[24]。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。
この間、慶長10年に千賀彦三を弟子に入れ、娘の竹を娶せて平四郎と改名、狩野姓も授けて婿養子(狩野山雪)として迎えた。山雪の結婚と改姓の時期はいずれも不明だが、山雪が那波活所に送った『西湖十景図扇面画』に活所が書いた詩に山雪が狩野姓で記されていたこと、藤原惺窩が作った題詠に元和5年(1619年)5月10日の日付があることから、遅くとも元和5年までには竹の婿となり狩野姓を授けられたことが推察される[25][26][27]。 慶長9年に九条幸家と淀殿の姪完子の結婚が行われるが、淀殿が2人へ提供した新築(九条家新御殿)の障壁画制作に山楽を抜擢したことがきっかけに幸家と山楽の関係が始まった。幸家の家臣信濃小路季重
九条家に接近