狐憑き
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法橋玉山画『玉山画譜』にある狐憑きの画

狐憑き(きつねつき)は、に取り憑かれたと言われる人の精神の錯乱した状態であり、臨床人狼病(英語版)の症状の一種である。また、そのような精神状態にある人、そのような事が起こり得ると信じる信仰、迷信もいう。地方により管狐飯綱オサキ人狐トウビョウゲドウ犬神などとも言う。
歴史
物憑きとして

日本霊異記」上巻第二縁「狐を妻(め)として子を生ましめし縁」[1]が日本史上最古の狐憑き伝説とされる[2]。同著中巻第四縁「力ある女、力くらべを試みし縁」[3]下巻第二縁「生物の命を殺して怨を結び、狐と狗とに作りて互に相報いし縁」[4]にも狐憑きが登場する。

今昔物語』には、物託(ものつき)の女、物託つて云く、己は狐也、祟をなして来れるに非ず、ただ此所には自ら食物散らふものぞかしと思ひて指臨き侍るを以て被二召籠一て侍るなり ? 『今昔物語』本朝附霊鬼部第四十

という記述がある。藤原実資は『小右記長元4年8月(1031年)の条に、狐憑きについて記し、建長年間の「古今著聞集」、応永年間の「中原康冨記」にも記述がある。

江戸時代は狐憑きに関する記述が豊富であった。

和漢三才図会』では狐托二於人一也、強気者則不レ能レ托、蓋邪気乗レ虚入之謂也

という説が武士階層に信じられた。

また、加藤嘉明の逸話なども語られた。そのむかし、加藤左馬助嘉明、里人を従へて野を逍遙す、狐叢に眠るを見て、里人に命じてこれを撃たしむ、然るに、その狐里人に托いて種々の譫言をし、狂ひ廻るによりて、その親族大に駭き、祈祷加持を営めど、さらに退かず、一時一人の導士来り、われこれを退かしめんと数珠を揉みて経を誦す、時に嘉明ここに来り、この体を見てうち笑ひ、かれもまた狐なりと、鳥銃をもて撃殺すに、果して年回る狐なり、これ元来嘉明に寇すべき筈なるを、強気により托く事かなはず、因て里人に托きたるなり ? 『松亭反古嚢』

『谷響続集』、魅惑与(ばかすこと)二悩者(つくこと)一事殊也

『武徳編年集成』、浮田秀家の室、妖恠に侵され悩乱す、秀吉(省略)来臨これ老狐の所為たる由を聴玉ひ、一簡を稲荷の祠官に投ぜらる

などのように武士の間で信じられていたが、医家の間でも、たとえば原南陽は、巫覡のいわゆる狐の13種類を信じ、その検査、治療は修験道者の加持祈祷によるとした。

なお、当事者は少なくない数で座敷牢に閉じ込められ[注釈 1]、ときに拘束具で拘束・折檻されたとされるが、1918年の「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」以前の記録は残されていない。
脱呪術化

文化年間、鳥取藩の医家の陶山大禄が初めて、狐憑きの妄誕無稽であることを論じて、『人狐弁惑』で、「狐憑は狂癇の変証にして所謂卒狂これなり、決して狐狸人の身につくものにあらず」として、狐が霊獣ではない例証、狐憑きが馬憑きに変わる例を挙げ、「畢竟これ皆精神錯乱の致すところなり」と結論した。

また、1807年香川修徳は「一本堂行余医言」巻五において、従前からの心身の異状について総括的に「狐憑き」と総称されていたものを以下の6つに分割し、「狐憑き」の概念を否定した。
驚……痙攣を主症状とする小児疾患

癲……発作の大きなてんかん

驚癲……総合的な神経症疾患

狂……統合失調症。「柔狂」(破瓜型失調症)と「剛狂」(緊張型失調症)の2種に分けた。

痴?……知的障害

不食……摂食障害

しかし、これは学者間のことで、民間ではなおこの迷信を払拭することはできなかった。医学者の間で狐憑きは瘋癲(ふうてん)人と呼ばれるようになった。

明治維新により西洋医学が導入されると、1885年、内科医ベルツにより「狐憑き」とされる女を診断・治療し、狐憑きは脳障害に起因するヒステリーが原因であるとされる「狐憑病説」の論文を国内で発表する[5]

1892年明治25年)、島村俊一は明治政府の命により島根県で狐憑きを渉猟し、その結果を報告し、1893年(明治26年)榊俶は狐憑きを精神病的に観察、報告し、呉秀三は初めて狐憑症として記述した。狐憑病は、鬼魅憑依などの一種にして、精神病に於て地方普通の妄信の檀呈するものに他ならず、而してその妄信の主として依托するところは、その症を構成する各原障礙なり、されば西洋には、狼憑、犬憑、鬼憑ありて狐憑なく、所謂狐憑なるもの、わが国に於ては頗る多く、狂疾を視て直に以て狐憑とするもの少なかあず、而してその色容を帯び来るの証候は、大体三種あり、曰く妄想に発するもの、曰く妄覚ない発するもの、曰く本人意識の変常に発するもの、これなり ? 『精神病学集成』呉秀三

1902年(明治35年)、門脇眞枝は「狐憑病新論」で狐憑統計表を示し、狐憑症と精神病原障礙との関係を明らかにした。ベルツは、狐憑きの学問的報告を政府に行ない、政府は官報で、狐憑きの俗見の払拭に努めた。

国内では東京や京都に私立の癲狂院(精神病院)が開院するものの、従来からの「狐憑きは身内の恥であり隠秘するもの・身内で何とかするもの」という因習への拘り[6]と、第一次世界大戦からの軍備費増強による精神医学への軽視[7]から、呉が再三にわたり政府へ陳情した精神病院建設計画は遅々として進まなかった。そのため当事者を適切に治療・療養させることなく、家族らによって宅内で監禁する私宅監置座敷牢相馬事件により行政の管理下に置かれたもの)制度は第二次世界大戦後の私立精神病院建設ラッシュ迄行われており、その後当事者らの相次ぐ入院で一般社会から隔離されはじめると、ようやく世間一般の間でも狐憑きは精神障害であると認識されることとなった。

狐憑きの原因と推測されるもののひとつに、抗NMDA受容体抗体脳炎がある。2011年9月、アメリカに留学中だった21歳の日本人女性は、ある時から頭痛が頻繁に起こるようになった。その後全身から汗が噴き出すようになり、意識のない状態で「死んじゃう」と繰り返し、呼びかけにも応えられない状態となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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