この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "犬養健"
日本の政治家犬養 健いぬかい たける
衆議院議員初当選当時の犬養健
生年月日1896年7月28日
出生地 日本・東京府東京市牛込区(現東京都新宿区)
没年月日 (1960-08-28) 1960年8月28日(64歳没)
死没地 日本・東京都
出身校東京帝国大学文科大学哲学科中退
前職小説家
所属政党(立憲政友会→)
(同会中立派→)
(日本進歩党→)
(民主党→)
(自由党→)
自由民主党
称号正三位
勲一等旭日大綬章
親族犬養毅(父)
芳澤謙吉(義兄)
第2-3代 法務大臣
内閣第4次吉田内閣
第5次吉田内閣
在任期間1952年10月30日 - 1954年4月22日
衆議院議員
選挙区岡山県第2区
当選回数5回
在任期間1949年1月24日 - 1960年8月28日
衆議院議員
選挙区(東京都第2区→)
岡山県第2区
当選回数7回
在任期間1930年2月21日 - 1947年
テンプレートを表示
犬養 健(いぬかい たける / いぬがい たけし[1]、1896年(明治29年)7月28日 - 1960年(昭和35年)8月28日)は、日本の政治家、小説家。法務大臣(第2代・第3代)、衆議院議員(12期)。正三位勲一等。内閣総理大臣犬養毅の三男。 学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学哲学科中退後、白樺派の作家として活動した後に政界入りした。1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で東京2区より立候補し初当選。 1941年にはゾルゲ事件への関与容疑で拘引、警察当局の取り調べを受け起訴されるが無罪となる。 第二次世界大戦中の1942年に翼賛選挙で当選し、1952年に吉田茂首相の引き立てにより法務大臣に就任するが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対し、重要法案(防衛庁設置法、自衛隊法)の審議中であることを理由に指揮権を発動して、逮捕の無期限延期と任意捜査に切り替えさせた。 指揮権発動の翌日に法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって犬養の政治生命は事実上絶たれることになった。佐藤は後に政治資金規正法で在宅起訴されたが、国連加盟恩赦で免訴となった。 作家としていくつかの佳品もあるが、造船疑獄における指揮権発動のために日本ペンクラブ加入を断られている。現在ではその文名を知る人は多くないが、義父の弟にあたる長与善郎や武者小路実篤の影響を受けて小説を書き、1923年に処女作品集『一つの時代』を刊行している。 精緻な心理描写と繊細な感じかたが評価され、のちに政治に転身してからも文士時代の知友との交際があった。俳優の上山草人が学生時代犬養家に寄宿していたことから知己であり、草人と妻の山川浦路、浦路の妹の上山珊瑚をモデルとした私小説『女優』も発表している[2]。
来歴・人物
年譜
1896年 - 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に犬養毅の三男として生まれる。
1930年 - 第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で東京2区より立候補し初当選(父・毅死後は岡山を選挙区とする)。
1931年 - 犬養内閣の内閣総理大臣秘書官に就任[3]。
1937年 - 第1次近衛内閣の逓信参与官に就任。
1939年 - 政友会の分裂に際し、金光庸夫や太田正孝とともに中立派に属する。
1941年 - ゾルゲ事件への関与容疑で拘引、警察当局の取り調べを受け起訴されるが無罪。
1942年 - 翼賛選挙に非推薦で当選。
1945年 - 日本進歩党の結成に参加、総務会長に就任。
1947年 - 公職追放。
1948年 - 追放解除。民主党総裁に就任。
1950年 - 自由党に入党。
1952年 - 第4次吉田内閣に法務大臣として初入閣。
1953年 - 第5次吉田内閣でも法相に留任。
1954年 - 造船疑獄で指揮権を発動、翌日法相を辞任。