犬神家の一族
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犬神家の一族
著者横溝正史
発行日1972年6月
ジャンル小説
日本
言語日本語
ページ数414
コードISBN 4041304059
ISBN 978-4041304051(文庫本)

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『犬神家の一族』(いぬがみけのいちぞく)は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。

横溝作品としては最も映像化回数が多い作品で、映画が3本、テレビドラマが8作品公開されており、特に市川崑監督による1976年公開の映画版は、メディアによって「日本映画の金字塔」と称されることもある[1]
概要

雑誌『キング』に1950年1月号から1951年5月号まで掲載された作品。『獄門島』のように殺人に一つひとつ意味を付与して欲しいとの編集サイドからの注文に応じ、家宝の「斧、琴、菊(よき、こと、きく)」[注釈 1]による見立て殺人が考案された。

登場人物(犬神梅子の家族)節で後述のとおり連載前の予告で犬神家は東京と信州瀬戸内海の一孤島に分かれていると設定されていた[3]以外にも、草稿段階では佐兵衛の名前が「嘉門」→「佐兵衛」→「庄兵衛」、3人の子どもの名前が「太郎・次郎・三郎」→「佐助・幸次郎・荘三」→「寅彦・辰彦・午彦」→「庄太・庄二・庄三」→「虎之助・庄次郎・章吉」→「きし・みね・はま」、孫の名前が「兵蔵・(空白)・静馬」→「兵蔵・周平・静馬」→「申彦・酉彦・戌彦」→「清彦・文彦・智彦」→「武彦・文彦・智彦」と際立った変化があるのをはじめ、当初孫に設定されていた静馬が孫から外され、のちに「庄兵衛」と「梅乃」(菊乃の連載時名)との間にできた子どもの名前として復活して連載作品の設定に近づいていくなど、実際に掲載されるまでには夥しい構想の変化があった[4]

当時、横溝は初回を激賞した編集長から「作品を3年続けて欲しい」と要望されたものの、それだけの大長編を書く準備がなかったため断らざるをえなかったが、「この言葉には非常にやる気が出た」と後年語っている。

当初は通俗長編であるとして、権田萬治による『日本探偵作家論』(1975年)などに見られるように専門家の評価は低かったが、1976年角川春樹の鶴の一声での映画化と、横溝正史シリーズの第一作としてのテレビドラマ化とで人気が一気にあがった。また、当初は欠点とされていた犯人とトリック全体の関連性なども、むしろ時代の先取りとして評価する声も少なくない。作品中の犯人の「無作為の作為」が田中潤司をはじめ推理小説研究家の間で見直され、田中は「金田一もの」のベスト5を選出した中で、本作を『獄門島』『本陣殺人事件』に次いで第3位に挙げている[5]。「東西ミステリーベスト100」(『週刊文春』)2012年版国内編で、本作品は39位に選出されている[注釈 2]

横溝自身は、メイン・トリックが先にできてそれにふさわしいシチュエーションをあとから構成し、第1回の筆を取る前に全体の構想が細部までできあがっていた『本陣殺人事件』『獄門島』に対し、本作は逆にシチュエーションが先にできて第1回を書き始めたものの第2回を書く頃にもまだ犯人がはっきりまとまっておらず、トリックなども書き出してから考えていったもので、それでは本格探偵小説として力が弱いのは当然であると述べており、本作をあまり高く評価していない[6]湖で発見される遺体のイメージ

本作の映画化を皮切りに、旧作が次々に映画化、復刊された。作者はこのとき70歳を過ぎていたが、世間の期待に応えるように旺盛に新作を発表し、1981年に没する直前まで書き続けた[7]

本作をモチーフにしたキャラクターや演出は後年に渡って広く知られ、漫画、アニメ、ゲーム、ドラマなどさまざまなメディアで数多く制作されている。それらの中には、「ゴムマスクを着用した佐清の容姿や名称」「大股開きで逆さまになって下半身だけ露出した死体」[注釈 3]「犬神家をもじった名称の一族による遺産騒動」などの共通性を持つものが多い。
あらすじ

昭和20年代のとある年(具体的な年が分からない点は後述)の2月、那須湖畔の本宅で信州財界の大物・犬神佐兵衛(いぬがみさへえ)が裸一貫の身から興した製糸業で築いた莫大な財産を残し、家族に見守られながら他界した。その遺産の配当や事業相続者を記した遺言状は、一族全員が揃った場で発表されることになっており、長女松子の一人息子佐清(すけきよ)の戦地からの復員を待つところとなっていた。佐兵衛は生涯に渡って正妻を持たず、それぞれ母親の違う娘が3人[注釈 4]、皆婿養子をとり、さらにそれぞれに息子が1人ずついたが、お互いが反目し合っていた。

同年10月、金田一耕助は東京から単身で犬神家の本宅のある那須湖畔を訪れた。犬神家の顧問弁護士を務める古館恭三の法律事務所に勤務する若林豊一郎から、「近頃、犬神家に容易ならざる事態が起こりそうなので調査して欲しい」との手紙を受け取ったためであった。那須ホテルを宿泊拠点とした金田一は、湖畔から犬神家の豪邸を望んでいたところ、犬神家に寄寓している野々宮珠世の乗っているボートが沈みかかっているのを目撃し、犬神家の下男の猿蔵とともに珠世を救出する。ボートには穴が開けられており、猿蔵の語るところによると、珠世が何者かに狙われたのはこれで3度目だという。その後、金田一がホテルに戻ったところ、若林が何者かによって毒殺されていた。知らせを聞いて駆けつけた古館の語るところによると、どうやら若林は犬神家の誰かに買収されて、法律事務所の金庫に保管している佐兵衛の遺言状を盗み見てしまったらしい。先行きに不安を感じる古館の依頼で、金田一は犬神家の遺産相続に立ち会うこととなった。

そんな中、ビルマの戦いで顔に大怪我を負いゴムマスクを被った姿で佐清が復員した。佐兵衛の遺言状は古館弁護士によって耕助の立ち会いのもと公開されることになるが、その内容は

「全相続権を示す犬神家の家宝“斧(よき)・琴(こと)・菊(きく)”の三つを、野々宮珠世(佐兵衛の終世の恩人たる野々宮大弐の唯一の血縁、大弐の孫娘)が佐清、佐武、佐智の佐兵衛の3人の孫息子の中から配偶者を選ぶことを条件に、珠世に与えるものとする」

というものであった。さらに、珠世が相続権を失うか死んだ場合、犬神家の財産は5等分され3人の孫息子は各5分の1ずつを相続し、残り5分の2を佐兵衛の愛人・青沼菊乃の息子の青沼静馬が相続することを聞き及んで、3姉妹の憎悪と怒りは頂点に達する。

こうして3姉妹の仲はいよいよ険悪となり、珠世の愛を勝ち得んとしての争いが始まる一方、佐清は偽者の嫌疑をかけられ、手形(指紋)確認を迫られるが、松子がこれを拒否する。

そんな中、佐武が生首を「菊」人形として飾られて惨殺されると、一転して佐清が手形確認に応じ、佐清本人であることが確認される。同じころ、下那須の旅館に顔を隠した復員服の男が宿泊し、べっとりと血の付いた手ぬぐいを残して立ち去っていた。そして、佐武の通夜の後、珠世の寝室から復員服の男が現れ猿蔵ともみ合った後、逃走する。

その後、佐智が珠世を襲おうとして失敗した後、何者かに首を絞められて殺される。そして、その首に「琴」糸が巻き付けられていたことを聞いた松子、梅子、竹子の3姉妹は、家宝の斧・琴・菊と、佐兵衛の愛人・青沼菊乃とその息子の静馬にまつわる秘密を明かす。30年前、佐兵衛が菊乃に入れ込んだ挙句、犬神家の家宝の斧・琴・菊を渡してしまい、さらに菊乃が男児を出産した[注釈 5]ことを知った3姉妹は菊乃を襲撃した。3姉妹は彼女を激しく折檻した挙句、赤ん坊の尻に焼け火箸をあてがい、遂に観念して斧・琴・菊を差し出す菊乃に対し、さらに赤ん坊は佐兵衛の子どもではなく情夫の子どもであると無理やり一札書かせた。しかし、菊乃は「いつかこの仕返しをせずにはおかぬ。いまにその斧、琴、菊がおまえたちの身にむくいるのじゃ。」と言い放ったのだという。
事件の発生年について

本作の事件の発生年は、冒頭に「昭和二十×年」と記載されている以外には詳述されていないが、登場人物の年齢は以下に示すように1949年(昭和24年)を基準に設定されている。

野々宮珠世は1924年大正13年)生まれで事件当時は26歳。

犬神佐清は奉納手形に「昭和18年 23歳、酉年の男」と書き記しており、事件当時は29歳。

犬神佐兵衛は17歳のときに野々宮大弐に保護され、事件が起きる半年前の2月に81歳で死去している。これだけでは年代を特定できないが、出会ったときに42歳であった野々宮大弐が1911年明治44年)に68歳で死去しているので、佐兵衛と大弐の邂逅は1885年(明治18年)だったことがわかる。つまり、佐兵衛が81歳で死亡したのは1949年(昭和24年)となる。

注:登場人物の年齢は数え年である。

しかし、1949年(昭和24年)説では以下のような問題が生じることが指摘されている。

佐清と静馬がいたビルマについては、1947年(昭和22年)に復員が進み、朝日新聞が8月27日に「南方残留同胞の引揚は目下着々と進み…最近の消息によると、ビルマ地区はほとんど完了…」、10月30日には「東南アジアには今や日本人は1人も残留していない」と伝えている[10]など、1949年(昭和24年)としては復員状況が不自然である[11]

岡山県で発生した『』事件と時期(11月5日 - 8日)[注釈 6]が重複する[注釈 7]

また、本作は一個人の遺言状が惨劇を引き起こす物語となっているが、この遺言状の法的効力については種々の問題点が指摘されており[注釈 8]、特に民法遺留分制度の前提となる法定相続分1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法の下で改正されたことにより問題が大きくなったことが、事件発生年の特定に重要と考えられている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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