犬小屋_(江戸幕府)
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犬小屋(いぬごや)は、江戸幕府が設置したを収容する施設。生類憐みに関する法令が出された5代将軍徳川綱吉政権期に設けられた。「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ[1][2]、特に中野に造られた犬小屋は「中野御用御屋敷」とも呼ばれた。犬小屋に収容された犬や、村預けされた犬(#村預け参照)は、当時の史料・記録に「御犬(おいぬ)」と記されており、野犬か飼犬かを問わず、犬小屋に収容されたことで幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた「御犬」となった[3]

犬小屋の広さは、中野は16万坪、大久保がおよそ2万5000坪、四谷の犬小屋は1万8928坪7合だった(『東京市史稿』市街篇十二[4][5][6])。若年寄の所管で、中野犬小屋の作事総奉行・米倉昌尹は若年寄に昇進して、犬小屋支配を命ぜられ[7]元禄11年(1698年)2月14日には4人いた若年寄のうち本多正永が中野の犬小屋の専任担当となり、本多の退任後は同じく若年寄の久世重之宝永2年(1705年)9月29日から犬小屋を管掌した(「常憲院殿御実紀」[8])。

かつて、犬小屋設置は「犬を溺愛した将軍綱吉が、江戸中の野良犬を養うよう強要した政策」とされてきた。しかし一方で、伝通院門前町付近の町人が周辺一帯の相当数の犬を犬小屋へ移送することを請願したように、犬小屋の設置が歓迎されていたことを示す文書も少ないながらも存在し[9]、生類憐れみの令の見直しも進み[10]、犬小屋は犬同士または犬と人とのトラブルを回避するために野犬を収容する施設と解釈されるようになっている[11]
設置
喜多見村の御用屋敷

当初犬小屋は、武蔵国多摩郡世田谷領喜多見村(現:東京都世田谷区)にあった側用人喜多見重政の陣屋(『新編武蔵風土記稿』第七巻[1][3])の敷地内に設けられた。喜多見は犬支配役を担当していたが[3]、元禄2年(1689年)2月に綱吉への背信行為によって喜多見氏が断絶[12]した後、この地は天領となり、犬小屋係下役が配置された(竹内秀雄「喜多見の犬小屋」『世田谷』第二十一号[1][3][6])。元禄6年2月の「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」(『竹橋余筆』別集収録[1][3])によれば、当時は喜多見村の幕府の御用屋敷がこの周辺の天領支配の拠点となっており、ここに40匹ほどの犬が収容施設で飼育されていた[13]。この御用屋敷内に、正月から12月までの354日間に1万3878匹の犬が預けられた。病気の犬や子犬のための「介抱所」「看病所」「寝所」のほか、陣屋役所・門番所・台所・舂屋[注釈 1]・鶏部屋・鶏遊び所などがあった[3]。犬に餌を与え、急病の犬が出た場合には犬医者を呼び寄せて薬を処方していた。中間16、7人が介護にあたり、養育のためには約5728人の人手を要した[3]

御用屋敷の入用項目として、「重キ病犬」「病犬」「村預り御犬」を介抱するために必要な食料[注釈 2]や薪・蝋燭・筵・菰などが記載され、その総額は銀3貫738匁4分5厘(金換算で62両1分余)となった[14]。それ以外にも、

重病の犬には、生魚は焼くか、味噌汁の中に入れて煮るかして、毎日朝夕ご飯とともに食べさせる

鰹節は村預かりの犬が病気になって食欲がない時に食べさせるものであるので百姓方へ渡しておく

夏のうち子犬に虫がついた場合には油をつけて櫛で取る

など、養育方法も具体的に示されていた[14]。手代や下役人が御囲内の巡回や犬医者の呼び寄せなどの業務を担当し、その諸経費は1日1匹当たり米3勺3才と銀2分7厘であった[15]
大久保・四谷の犬小屋

幕府は、大久保・四谷・中野に犬小屋を新設した。喜多見村の御用屋敷が主に病犬を収容したのに対して、ここに収容された犬は飼い主のいない無主犬が中心だった。これは、犬小屋への収容が病犬・子犬の保護から、野犬対策へと比重を移していったと考えられている[15]

元禄8年(1695年)3月に、幕府は千駄ヶ谷村(現:東京都渋谷区新宿区)に犬小屋の建設を決定し、同月30日に普請を担当する奉行として、御側米倉昌尹と藤堂良直が、助役として松平利直(加賀国大聖寺藩主)が任命された[16][17]

四谷犬小屋の建設地として、千駄ヶ谷村の柳沢保明(柳沢吉保)の屋敷が召し上げられ、御用地として1万8928坪7合が元禄8年4月5日に引き渡された(『東京市史稿』産業篇第八[17][18]。柳沢吉保には代地として武蔵国豊島郡駒込村(現・東京都文京区豊島区)の土地4万7000坪が与えられ、その一部が後の六義園となる[17]。同時に大久保村(現・東京都新宿区)地内のおよそ2万5000坪の土地にも犬小屋が建設された[17]

普請を命じられた大聖寺藩は元禄8年に毎日5000から6000人の人足を出して、2万坪余の敷地に長さ40間の小屋を多数建設した[18]。当初は幕府から犬小屋の建設であることを隠すよう指示され、普請に携わった者たちからも誓詞を取り隠密に実施するように命じていた[19]

犬小屋の竣工後、普請に尽力した者たちは、幕府から同年6月1日と2日に時服などが下賜された。また竣工前の5月23日、元禄6年(1693年)9月の鷹遣い停止で鷹狩が廃止になったことで職を解かれた5人の鷹匠が寄合番に役替えとなり、犬小屋の支配となった[20]。子犬の繁殖を防ぐため、主に江戸中の牝犬を収容したが、2年余りで四谷犬小屋は廃止され、犬はかねてより建設が進められていた中野犬小屋に移された[18]
中野の犬小屋現在の中野区役所前には、かつて一帯が「お囲い」であったことを伝える碑と犬の銅像が設置されている。


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