牽牛子塚古墳
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牽牛子塚古墳
墳丘全景(2022年)
所在地奈良県高市郡明日香村
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度27分58.7秒 東経135度47分32.29秒 / 北緯34.466306度 東経135.7923028度 / 34.466306; 135.7923028
形状八角墳
規模墳丘対辺長約22m(石敷・砂利敷部分を含むと32m)
出土品夾紵棺、七宝飾り金具、臼歯など
築造時期7世紀中葉-8世紀初頭
被葬者(一説)第37代斉明天皇
史跡国の史跡「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳」
有形文化財出土品(国の重要文化財
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}牽牛子塚
古墳
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内部主体への通路(整備後)

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。

指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前塚」と呼称されることもある[1]2009年平成21年)から2010年(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代女帝天智天皇天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている。2022年2月に完全復旧が終了した[2]
立地

橿原市との村境に近い明日香村大字越の丘陵先端部の一番幅広で、高所の安定した場所に位置しており、戸の古墳の墳頂部の標高は126.3メートルであり、国の史跡である岩屋山古墳(明日香村大字越)の西方約500メートルの地点に立地する。
外観・規模

以前より、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女孝徳天皇皇后)の合葬墓とする説があった。また、1977年昭和52年)から1978年(昭和53年)にかけて環境整備事業の一環として発掘調査がおこなわれており、その際、実際の測量をもとにした実測図が作成され、円墳と報告されながらも[3]八角墳の可能性が高いこともあわせて指摘されていた。

2009年9月より2010年9月にかけて、明日香村教育委員会による学術目的の発掘調査がおこなわれ、2010年(平成22年)9月9日、村教育委員会は調査成果を発表した[4][5][6]

それによれば、墳丘地震により崩落していたが、高さ約4.5メートルと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明し、墳丘の裾(すそ)は平面八角形状に削られており、対辺の長さは約22メートルにおよぶことを確認した。墳丘周囲では外側を八角形にかこむ石敷遺構が確認されており、北西の裾からは三辺分の石敷を検出している。うち一辺(約9メートル)はほぼ完全なかたちで遺存しており、幅は約1メートルでブロック状の切り石が3列にすき間なく敷き詰められていた。石敷遺構そのものも、正八角形になるよう途中で約135度の角度で屈曲しており、上空から鳥瞰した場合、共通の中心をもち大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石敷部分3列の相似八角形が重なるかたちとなる。石敷の外側には、さらに砂利が敷き詰められ、その部分も含めると全体では32メートルほどの規模になると推定される[4]

また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が数百個以上出土しており、調査者は、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたとしており、その総数は約7,200個におよぶと推定している[7]

墳丘一段目は一辺12.2メートル、対角線約33メートル、墳丘二段目は一辺約7メートル、対角線約18.5メートル、高さ4メートルである[8]
内部構造

内部施設は、南にむけて横穴が開口するかたちの横口式石槨であり、2009年段階ではすでに一部露出していた。横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約15キロメートル離れた二上山西麓より運搬したものと考えられる[5]。石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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