特殊慰安施設協会
[Wikipedia|▼Menu]
安浦ハウスに集まる米国将兵たち

特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい・RAA)は、第二次世界大戦後、東京を中心に、連合国軍占領下の日本政府の援助により作られた「慰安所」を中心とした占領軍用の慰安施設である。連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐために設置された[1]
概要

英語では Recreation and Amusement Association と言い、RAA の頭字語で知られた。直訳は「余暇・娯楽協会」であり、日本語の名称との間で意味が大きく異なる。

藤目ゆきによれば、RAAでは、最盛時には7万人、閉鎖時には55,000人の女性が働いていた[2]

RAAは東京での活動が主であったが、そのほかの地域でも各自治体の警察の監督の下で「特殊慰安施設」が運営された。
進駐軍の慰安所

日本を占領下に置く連合国のうちの1国であるアメリカ軍は、公娼制度を認めず慰安所を置かないことが判明しており、イギリス軍オーストラリア軍をはじめとするイギリス連邦軍も大量の将兵を占領任務に当てることから、これらの連合国軍兵士による日本の一般女性に対する強姦事件が予測されたため、日本国政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」(ニコラス・クリストフによる)を募集し、連合軍向けの慰安所を設立。53,000人[3]とも55,000人[4]とも言われる人数が集まった。

占領軍の性対策については警視庁が8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った[5]。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった[6]。8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視庁総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋下政実内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された[6]。早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された[7]。また右翼団体の国粋同盟(総裁笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している[8]

こうした状況下で、「関東地区駐屯軍将校並に一般兵士の慰安」を目的に東京で開業したのが、「特殊慰安施設協会」、英語名、Recreation and Amusement Association(レクリエーション及び娯楽協会, RAA)であった[9]:80。

占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムス陸軍大佐が9月28日に、与謝野光(与謝野鉄幹晶子 夫妻の長男)東京都衛生局防疫課長に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した[10][11]。また、与謝野衛生局長(朝日新聞インタビュー当時)は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた[10][12]。1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた[13]

その後1946年に、ポツダム命令による公娼制度廃止の方針と、元アメリカ大統領夫人エレノア・ルーズベルトの反対、加えて性病の蔓延を理由として、GHQが特殊慰安施設を廃止した。特に性病に関しては、東京などを除けば衛生管理が不徹底だったため、敗戦の混乱と相俟って慰安婦の6割が梅毒など、何らかの性病に罹患していた[3]

百瀬孝によると、RAAとは別に連合国軍の女性兵士用の「慰安夫」も存在した。昭和21年に名古屋に進駐した女性兵士用に採用された男性は、内臓、眼、皮膚、血液、尿の検査を受け、松坂屋近くの木造アパートに数名の男性と一人一室が与えられ、半年間特定の女性伍長の専属になった。勤務は一日置き。食料は潤沢に与えられたが、体力的に過酷だった[14]

連合国軍占領下の日本では、娼婦の料金は8セント(0.08ドル)で1日に47人のアメリカ人の相手をした女性の手取りは2ドルであった(ニューヨークタイムズ)[15]
設立背景

以下の三点が設立背景とされる[16][17]

ヨーロッパの戦場で、アメリカ軍将兵によるレイプの被害者が14000人(ドイツ人女性 11040人)いたこと[18]

沖縄戦では連合国軍の上陸後強姦が多発したこと。アメリカ軍兵士のみにより強姦された女性数を10000人と推定する見解もある[19]

連合国軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生したこと[16]。占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後1ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた[20]

上記に加えて玉音放送以後の日本国内で「敵は上陸したら女を片端から陵辱するだろう」と噂が拡がった[21]。警察の内部報告書は、「掠奪強姦などの人心不安の言動をなすものは戦地帰りの人が多いようだ」と述べている[22]
設立まで君が先頭に立って、日本の娘の純潔を守ってくれ ? 1945年8月19日、警視総監の坂信弥に対し副総裁就任翌日の近衛文麿 [23]

占領軍の性対策については内務省警保局1945年8月15日の敗戦直後から検討した[24]

8月17日に成立した東久邇宮内閣の国務大臣近衛文麿は警視総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画した[25]。警視総監坂信弥は、「東久邇宮さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」と当時の事を証言している[26]

8月18日、内務省は同省警保局長橋下政実によって「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」[25](「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」[27])、および「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達し、警視庁は花柳界の団体と打ち合わせを行った[23]

連合国軍対策の一環として26日に外国軍駐屯地における慰安施設が設立された[27]。戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑からである[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef