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特別急行列車(とくべつきゅうこうれっしゃ)は、鉄道における急行系統の列車であり、急行列車の上位に位置する列車種別である。略して、特急列車(とっきゅうれっしゃ)、または単に、特急(とっきゅう)という。
鉄道会社や鉄道路線ごとに多少の違いはあるものの、概ねその路線で最も早く目的地に到達する列車に与えられる呼称である[注釈 1]。
また、一般に普通列車に比べ停車駅が少なく、運転速度も速いことにより、利用区間の到達時間が短くなるという速達性がある種別。
本項では、特急料金が必要な優等列車(長距離列車)としての特急列車のほか、以下についても取り扱うこととする。 特別急行(特急)列車が設定される前、急行列車より速い列車には「最急行」という種別をつけることがあった。その中でも1906年(明治39年)4月16日に、国有鉄道の新橋駅 - 神戸駅間で設定された「最急行 1列車・2列車」は、運賃以外に初めて速達サービスのための料金を徴収する列車となるなど、現在の有料特急・急行の元祖と位置づけられるものであった。 「特別急行」の種別を初めて用いたのは、1912年(明治45年)6月に前述した「最急行 1列車・2列車」を区間延長する形により、関釜連絡船を介して中国・欧州などへの国際連絡運輸の一翼を担う「大陸連絡列車」として、新橋駅 - 下関駅(山口県下関市)間で運転を開始した 1列車・2 列車である。編成内容も一等車・二等車のみで洋食専門の食堂車を連結し、展望車が最後尾に連結されるなど[2]、「日本の国威」を対外宣伝するためのような存在であった。1914年(大正3年)12月に東京駅が開業すると、1列車・2列車も東京駅始発となった。 1923年(大正12年)7月、同区間に三等車のみで構成された 3列車・4列車が運転開始される[3]。そこからも分かるように、この列車は食堂車も急行列車と同様の和食堂車を連結するなど、どちらかと言えば大衆向けの設定であった。昭和に入ると特急列車に「列車愛称」が付けられるようになり[4]、新しい列車の設定も見られたが、間も無く戦争に突入したため、結局戦前の特急列車は下記の 4種のみにとどまった。また戦前の特急列車は、東京以西の路線(東海道本線、山陽本線、鹿児島本線、長崎本線)のみで設定されていた。しかし第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、特急および急行列車などの全廃が決定[5]。同年4月を以て「富士」を最後にそれらは全て廃止され、日本の特急列車は一旦消滅した。
特急貨物列車:高速輸送の貨物列車
特急電車:かつて日本国有鉄道(国鉄)で運行されていた特急料金不要の列車(普通列車)
特急料金不要の「特急」:現在日本の私鉄で運行されている列車であり、国鉄・JRでは広義の普通列車に含まれる列車[注釈 2]
鉄道以外の「特急」
国鉄・JRの特別急行列車
沿革・概要
戦前特別急行列車の創始とその終焉
この時期の特急列車
富士(ふじ):1929年(昭和4年)9月、当時の国有鉄道を運営していた鉄道省は前述した 1列車・2列車に「富士」と命名した[4]。これは日本初であり、また公募によるもので(公募については列車愛称を参照)、後述する「櫻」・「燕」もそこから命名されている。「富士」は戦前の日本を代表する列車となり、一等展望車を最後尾に連結していた。1942年(昭和17年)11月、関門トンネルの開業により「富士」は運転区間を長崎まで延長、翌年博多までに短縮し、1944年(昭和19年)4月に廃止された。