物言い
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「ものいい」はこの項目へ転送されています。お笑いコンビのものいいについては「ものいい (お笑いコンビ)」をご覧ください。
土俵での行司・勝負審判・控え力士配置 協議の様子

物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、審判委員や控え力士が異議を唱えること。またそれから転じて、異議を申し立てること全般を「物言いをつける」ともいう。
概説

審判委員は、勝負の判定を正しくし、公平に決定する責任があるから、行司の軍配に異議を感じた場合(主に対戦両者が微妙な体制で土俵を割ったり体が落ちたりした場合、反則行為が疑われる場合など)は、直ちに速かに、異議ありの意思表示(物言い)をして、協議に入らねばならない[1]。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。行司は物言いを拒否することはできない[2]。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が審判長から発表される。1965年1月場所より、物言いの際の経過説明を審判長が行うこととなった[3]。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず[4](江戸時代には『無勝負』という、行司が同体と判断するケースも認められていた)、また行司は禁手・反則の有無を判断することは出来ないため、これらを取り上げるのも審判委員の意思表示による。

また、土俵下に控えている力士も、物言いをつけるための挙手をする事ができ[5]、審判委員は控え力士から物言いが出た場合、必ず土俵上で協議を行わなければならない[6]。なおその控え力士自身は協議に参加することは出来ない[7]。なお、行司は取組の状況を述べたり、勝負の流れがどちらに有利であったかと言う説明をする事以外では協議に参加できない。

前述のような微妙な体制の際に物言いが行われることから、多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違え(もしくは行司軍配差し違え、俗に言う行司黒星[8])という。行司にとっては、軍配差し違えはいわゆる負け、相撲用語的には黒星とも言える出来事であり、査定にも響くため、かなりの心理的ダメージを負うこととなる。

審判長から協議内容の説明の際、原則として十両以上の取組の場合は当該力士の四股名を用いて説明を行うが、幕下以下の場合は原則として四股名ではなく「東方力士」「西方力士」と呼ばれる。また「只今の協議は確認のための物言いでありまして、軍配どおり○○の勝ちといたします。」と説明する時もある。

アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、大会にもよるが、ビデオ判定は用いられないことなどを除き、形態は大相撲とほぼ同じである。

この大相撲の「物言い」は、複数の元選手が審判の判定をチェックするために場外に待機する制度であり、他のスポーツでは見られないものである。
ビデオ判定

大相撲にビデオ判定が導入されるきっかけは、1969年3月10日の3月場所2日目、横綱大鵬前頭筆頭・戸田の一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追ううちに戸田の右足が俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。22代式守伊之助の軍配は大鵬にあがったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が先に土俵を割ったという結論(審判長の春日野(元横綱栃錦)以外の4人が戸田の勝ちを支持)になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。しかし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。この日、NHKは午後7時からのニュースで、この一番をスローモーションで放送。大鵬がここまで45連勝していたこともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。日本相撲協会には抗議の電話が相次ぎ、大鵬が所属する二所ノ関部屋宿舎には「タイホウが勝っていた。気を落とすな」との電報まで届いた。翌日、1969年3月11日付の日刊スポーツは、「大鵬『45』でストップ!」との大見出しで、この一番を報じている。小見出しには「誤審防止へ写真も使う」とある[9]

協会理事長の武蔵川(元幕内・出羽ノ花)は誤審について、「こうした微妙な勝負に対しては審判員の参考として写真、工業用テレビなど利用することを考える。しかし、相撲の勝負判定は他の競技と違う特殊性があるので、写真を判定の主にすることはない。あくまで参考にして使いたい。運営審議会にもかけ、工業会社にも依頼して近いうちテストしてみたいと考えている」とコメント。この段階ではまだ、協会側はビデオ判定のテストをしていないように推測される。誤審を受けて、協会は目視による判定を補う方法について検討し、次の5月場所よりビデオ判定を導入することになった[9]

協会広報部の資料には、「写真判定」の欄に「昭和44年3月場所2日目、大鵬?戸田戦で大鵬の連勝記録45でストップの一番と、9日目琴桜?海乃山戦の物言いが原因となって、翌10日目に審判部にて正式に翌5月場所からNHKテレビのVTRを参考資料にすることを決定した(実際には以前から準備しており、44年5月場所より採用予定であった)」と書かれている。1969年3月場所10日目、当時の春日野審判部長(元横綱・栃錦)は「写真判定採用は海乃山?琴桜戦が動機でもなければ、もちろん大鵬?戸田戦でもない。初場所前の記者会見後みんなで話し合って、最も近い時期を選んでということで、夏場所から実施することに決めたものだ。どんな方法でやるかはまだ分からないが、とにかく決まった以上は審判部が一丸となってやるつもりだ」とコメント。武蔵川は「写真判定採用については5月からやることを正式に決めた。具体的なことは審判部に一任、協会はこれに対して全面的にバックアップをする」とした[9]

相撲協会は、写真判定導入決定後の1969年4月8日、理事長、審判部長らがトップ会談を行い、写真判定の方法を発表。まずは幕内だけの取組を対象に、NHKの大相撲中継の録画映像を勝負判定の参考にすることにした。実際は「ビデオ判定」だが、当時は「写真判定」という言い方が一般的だった[9]

1974年に発行された「武蔵川回顧録」(ベースボールマガジン社)によると、武蔵川は当時について「数年来の懸案としてこの問題を討議していた協会は、この年の1月場所においてNHK画像からビデオ・テープに収録して勝負判定の補助とするよう試験を行い、良好な結果を得たので5月場所から本格的実施に踏み切ろうとした矢先の、大鵬?戸田戦であった」と振り返っている[9]

2000年頃より多くのプロスポーツでビデオ判定を導入する動きが見られるが、大相撲のビデオ判定はこれらに大きく先んじるものである[10][11]
エピソード
近代相撲以前

講談などでは、寛政時代雷電小野川の取組で、雷電の寄りを土俵際こらえた小野川が必死に残すも軍配は雷電、しかし小野川を抱える久留米藩藩士が小野川がうっちゃったであろうと刀に手をかけ、土俵に駆け上って物言い、行司は委細構わず凛然と「雷電ン?!」と勝ち名乗りをあげ、観客の喝采を得るという話があった。これ自体は全くの創作だが、こうした強引な物言いは当時決して少なくなく、江戸の庶民も腹に据えかねていた。

1789年(寛政元年)11月場所6日目、角界史上初の横綱(番付上は大関)披露を翌日に控えた関脇小野川は前頭2枚目関ノ戸と対戦。小野川がちょっとしたはずみで左膝をつき、関ノ戸の勝ちとなるところを強引な物言いがついて勝負預りとなった。関ノ戸にとっては不運であったが、小野川の横綱披露に差し障りがあるため、無理難題な物言いだったとされている。

明治時代

1877年頃、幕下和田ノ森?淀川戦は仕切り直し四十数回。しびれを切らした勝負検査役が勝負預りにしようとしたが、ある検査役の「仕切る姿が和田ノ森の方が良かった」という提案で和田ノ森の勝ちと決まった。

1895年6月場所6日目、前頭筆頭鳳凰?横綱初代西ノ海戦。8代式守伊之助は西ノ海に踏み切りありと鳳凰に軍配を挙げたが物言い。西ノ海の師匠・初代高砂取締が役員室から出てきて、踏み切ったかかとの跡のある砂を掘り「この通り、砂を払えば下は俵だ。踏み切りはない」とゴリ押し。正取締(現在の理事長職)の剣幕に押されて検査役の意見はまとまらず、深夜遅くになって協会預かりと決まった。結局、3人の検査役が辞任、伊之助が3日間謹慎ということで表面を取り繕ったが、西方力士がこれで収まるはずはなく、翌1896年1月の高砂追放事件に繋がった。

1897年1月場所8日目、大関鳳凰?横綱小錦戦。左四つから同体、15代木村庄之助は軍配を鳳凰に挙げたが物言い。観衆は布団や火鉢を投げ、土俵近くに群がり、小錦のファンであった歌舞伎役者の中村勘五郎は土俵の真ん中に大の字に寝て「預かりにしなければ、死んでも土俵を降りない」と叫んだ。結局は預かりと決まったが、そのときはすでに鳳凰が帰宅した後だったので、人を迎えに走らせたりするうち、日もとっぷりと暮れて回向院の場内に提灯をたてて気発灯に点火、両力士が土俵に上がって勝負預かりとなったのは、相撲が終わって実に8時間後だった。

1905年1月場所5日目、前頭筆頭太刀山?小結駒ヶ嶽戦で、駒ヶ嶽の寄りを太刀山はこらえきれず土俵下へ転落した。このとき太刀山の投げ出した足が、土俵下で控えていた行司木村瀬平を直撃した。瀬平は後ろにひっくり返り苦しんだが、際どい勝負のため検査役から物言いがついた。1時間に及ぶ協議の末「勝負預かり」となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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