物忌奈命神社
拝殿
所在地東京都神津島村41[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度12分30.6秒 東経139度8分4.6秒 / 北緯34.208500度 東経139.134611度 / 34.208500; 139.134611 (物忌奈命神社)
物忌奈命神社(ものいみなのみことじんじゃ)は、東京都神津島村にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は府社。
神津島の鎮守で[2]、前浜集落北部の丘上に鎮座する。 祭神は次の1柱[3]。 鎌倉時代末期の成立とされる『三宅記』では、三嶋神が神集島(神津島)に置いた「長浜の御前」から長子「たゝない王子(たたない王子)」、次子「たふたい王子」が生まれたと記す[4]。これら3神の社はそれぞれ阿波命神社、物忌奈命神社、日向神社に比定される[4][注 2]。 平成12年の震災で圧壊した本殿から「集島定大明神」(づしまさだめだいみょうじん?)の扁額が見つかる。正一位集島定大明神 神祇道管領卜部朝臣良長 創建は不詳。 国史の初見は『続日本後紀』の承和7年(840年)における記事[原 1]で、上津島(神津島)に坐す神は阿波神は三嶋大社本后である旨、物忌奈乃命はその御子神である旨、そしてこの神々のため神宮四院が新たに造営された旨が記載されている[4]。同記事では、続いて神院の様子が描写される[4]。そして、去る承和5年(838年)7月5日夜に神津島で激しい噴火が発生したといい、占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階を賜ったにもかかわらず、本后たる阿波神には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた[4]。同記事にある「後后」とは、静岡県下田市の伊古奈比当ス神社祭神を指すとされており[4] 、先の天長9年(832年)には三嶋神・伊古奈比当ス両神を名神に預けるという記事[原 2]が載っている[4][注 3]。 上記の承和7年の記事を受けて、約一ヶ月後[原 3]に阿波神・物忌奈乃命両神の神階は無位から従五位下に昇った[4]。その後はいずれも阿波当スとともに、嘉祥3年(850年)[原 4]に従五位上が授けられたのち、同年[原 5]には官社に列し、仁寿2年(852年)[原 6]には正五位下に昇った[4]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「物忌奈命神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[3]。現在の東京都の中で、名神大社は物忌奈命神社と阿波命神社のみである[4]。 中世の『伊豆国神階帳』(康永2年(1343年)以前成立)では物忌奈命神社を具体的に示す記載は見えないが、一説に「正一位天満天神」がこれにあたるとされる[5]。この中で「天満天神」とは、国府における物忌奈命神社の遥拝所であった三島市の天神社(三嶋大社元摂社)を指すとされる[5]。 明治11年(1878年)9月1日、近代社格制度において府社に列した[6]。 平成12年(2000年)7月1日の新島・神津島近海地震による地滑りで本殿が、その数日後の台風による地滑りで社務所兼参集殿が倒壊した[7]が倒壊した本殿から「正一位集島定大明神」の扁額が発見された。 その後、平成18年に社務所兼参集殿、本殿とも再建された。
祭神
物忌奈命 (ものいみなのみこと)『続日本後紀』[原 1]によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)[注 1]とその本后の阿波当ス(阿波命神社祭神)の間の御子神という[4]。
歴史神津島全景中央は承和5年(838年)に大噴火を起こした天上山。その下の浜辺(長浜)に阿波命神社が、右端の集落に物忌奈命神社が鎮座する。
概史
神階
六国史における神階奉叙の記録
承和7年(840年)10月14日、無位から従五位下 (『続日本後紀』)[原 3] - 表記は「物忌奈乃命」。
嘉祥3年(850年)10月8日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』)[原 4] - 表記は「物忌奈乃神」。