牧野富太郎
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牧野 富太郎
(まきの とみたろう)
出典: 牧野植物学全集第1巻(1934年)
人物情報
生誕 (1862-05-22) 1862年5月22日
文久2年4月24日
日本
土佐国高岡郡佐川村
(現在の高知県高岡郡佐川町
死没 (1957-01-18) 1957年1月18日(94歳没)
日本
東京都文京区
居住東京都練馬区
国籍 日本
出身校義校「名教館」(名教義塾)[1]
佐川小学校(中退)
配偶者牧野 壽衛(スエ)
子供牧野富太郎#家族を参照。
学問
研究分野植物分類学
研究機関帝国大学理科大学
(東京帝国大学理科大学)
指導教員永沼小一郎(高知師範学校
松村任三
主な指導学生里見信生(wikidata)
学位理学博士(東京帝国大学・1927年)
称号日本学士院会員(1950年)
東京都名誉都民(1953年)
主な業績多数の新種を発見・命名
『植物学雑誌』の刊行
主要な作品『牧野日本植物図鑑』
学会東京植物学会
主な受賞歴朝日文化賞(1937年)
勲二等旭日重光章(1957年)
文化勲章(1957年)
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牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日文久2年4月24日〉 - 1957年昭和32年〉1月18日)は、日本植物学者高知県高岡郡佐川町出身。位階従三位

「日本の植物学の父」[注釈 1]の呼び名で一般に広く知られ[3]、日本各地に牧野の名前を冠した顕彰施設が存在する。多数の新種発見し、命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。旧制小学校中退でありながら理学博士学位を取得した。誕生日である4月24日は「植物学の日」に制定された[4][信頼性要検証].mw-parser-output .scope-of-sources>.ref1:hover~.source1,.mw-parser-output .scope-of-sources>.ref2:hover~.source2,.mw-parser-output .scope-of-sources>.ref3:hover~.source3,.mw-parser-output .scope-of-sources>.ref4:hover~.source4,.mw-parser-output .scope-of-sources>.ref5:hover~.source5,.mw-parser-output .scope-of-sources>.ref6:hover~.source6,.mw-parser-output .scope-of-sources>.ref7:hover~.source7{background-color:#ffe1ff}.mw-parser-output .scope-of-sources>.text1:hover,.mw-parser-output .scope-of-sources>.text2:hover,.mw-parser-output .scope-of-sources>.text3:hover,.mw-parser-output .scope-of-sources>.text4:hover,.mw-parser-output .scope-of-sources>.text5:hover,.mw-parser-output .scope-of-sources>.text6:hover,.mw-parser-output .scope-of-sources>.text7:hover{border-bottom:dashed 1px}。

94歳で死去する直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚におよび、命名植物は1,500種類を超える。財団法人板垣会顧問[5]
生涯

1862年文久2年)、土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で、近隣から「岸屋」という屋号の商家雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた[6]。平民身分であったが苗字帯刀も許されていたという[6]

元は「成太郎」という名であったが、3歳で父の佐平を、5歳で母の久壽を、6歳で祖父の小左衛門を亡くしたころ、「富太郎」に改名している[6]。その後は小左衛門の後妻である血の繋がらない祖母の浪子に育てられた[6][7]

10歳より西谷にある土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると義校である名教館[注釈 2](めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林1815年 - 1895年[8]に学んだ[9]。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

名教館は学制改革により、校舎はそのままに佐川小学校となった[10]。そこへ入学したものの寺子屋や塾で習熟した授業内容に嫌気が差し、2年で中退して植物について独学で学ぶようになった[10]。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[11]

酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた[11]。15歳から佐川小学校の「授業生」、すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった[12]。佐川で勉強するだけでは物足りなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。

そして、江戸時代本草学者小野蘭山の手による「本草綱目啓蒙」[13]に出会い、本草学、とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した[11]

東京市では博物局[14]田中芳男小野職愨の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学した。

帰郷した1881年明治14年)、富太郎は2歳年下の従妹でかねてから許嫁の猶(旧姓=山本)と祝言を挙げ、牧野猶は本家岸屋の若女将となる[15][16]

1884年(明治17年)、富太郎は本格的な植物学を志し、22歳の時に再び上京する。そこで東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。


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