牧野古墳
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牧野古墳

石室開口部
所属馬見古墳群(中央群)
所在地奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目(牧野史跡公園内)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度33分15.45秒 東経135度43分26.60秒 / 北緯34.5542917度 東経135.7240556度 / 34.5542917; 135.7240556座標: 北緯34度33分15.45秒 東経135度43分26.60秒 / 北緯34.5542917度 東経135.7240556度 / 34.5542917; 135.7240556
形状円墳
規模直径48-60m
高さ13m
埋葬施設両袖式横穴式石室
(内部に刳抜式家形石棺1基・組合式家形石棺1基)
出土品副葬品多数・須恵器
築造時期6世紀
被葬者(一説)押坂彦人大兄皇子
史跡国の史跡「牧野古墳」
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}牧野古墳
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牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町馬見北にある古墳。形状は円墳馬見古墳群(うち中央群)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。

押坂彦人大兄皇子(第30代敏達天皇皇子)の墓に比定する説が知られる。
概要

奈良県西部、馬見丘陵中央部の小尾根先端部に築造された山寄せの大型円墳である[1][2]1983年度(昭和58年度)に発掘調査が実施されている[2]

墳形は円形で、直径48-60メートル・高さ約13メートルを測る[2]。墳丘は3段築成であるが[2]、山寄せのため最上段(3段目)のみが完全な円形をなす[1]。墳丘外表では埴輪片が認められるが、原位置を保つものはなく、墳丘外表の化粧のため他古墳から取られたと推測される[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する[2]。石室全長17.1メートルを測る、奈良県下では最大級の大型石室である。石材には花崗岩の巨石が用いられ、石室の玄室内には刳抜式家形石棺1基・組合式家形石棺1基(非現存)が据えられる[2]。両石棺とも盗掘に遭って大きく破壊されているが、発掘調査では石棺の周囲や羨道部から多くの副葬品が検出されている。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀末葉頃と推定される[1][2]。馬見古墳群では数少ない横穴式石室を有する古墳であるとともに[3]、墳丘の規模・石室の規模・副葬品の豊富さは当時として優れた内容を示す古墳になる。被葬者は明らかでないが、第30代敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子に比定する説が有力視される[1][4][2]

古墳域は1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されている[5]。現在では牧野史跡公園として史跡整備され、石室は立ち入りが制限されているが毎年一時期に公開されている。
遺跡歴

1957年昭和32年)6月19日、国の史跡に指定[5]

1983年度(昭和58年度)、史跡整備に伴う発掘調査(奈良県立橿原考古学研究所1987年に報告書刊行)[2]

埋葬施設石室パース図石室展開図

埋葬施設としては墳丘2段目に両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り。

石室全長:17.1メートル

玄室

長さ:左側壁6.73メートル、右側壁6.7メートル

幅:奥壁3.3メートル、玄門3.2メートル

高さ:4.5メートル

裾部:左裾長さ0.7メートル、右裾長さ0.74メートル


羨道

長さ:左側壁10.24メートル、右側壁10.7メートル

幅:玄門1.8メートル、羨門1.77メートル

高さ:玄門2メートル、羨門2.2メートル

石室の石材には花崗岩の巨石が使用される[1]。石室の側壁は持ち送りによって構築され、石材の隙間には粘土が詰められる[2]。石室の床面は礫敷で、その下に排水溝が設けられる[2]。排水溝は玄室の壁面付近を巡り、玄門付近で合流して羨道を通って石室外に出る[2]。また開口部には閉塞石が残存する[1]。石室構造は赤坂天王山古墳桜井市)と同じ設計になるとされ、同古墳は真の崇峻天皇陵とする説が有力であることから、皇室に関わる石工集団による築造とする説がある[6]

石室の玄室内には刳抜式家形石棺1基・組合式家形石棺1基の計2基が据えられる[2]。刳抜式石棺は奥に、組合式石棺は手前に位置する。それぞれの内容は次の通り。

刳抜式家形石棺(奥)奥壁側において、石室主軸と直交する方向に据えられる。凝灰岩製。盗掘により大部分が破壊され、棺身は側面が持ち去られているほか、蓋石も1/3と縄掛突起が壊されている[2]

組合式家形石棺(手前)奥棺の手前において、石室主軸と平行する方向に据えられる。盗掘により完全に破壊され、細片のみが確認されている。

これら2棺は同時埋葬と推測される[1]。2棺とも盗掘に遭っているが、発掘調査では石棺の周囲や羨道部から多くの副葬品(後述)が検出されている。

俯瞰図

玄室(奥壁方向)

玄室の刳抜式家形石棺

玄室(羨道方向)

羨道(開口部方向)
床面に排水溝が認められる。

羨道(玄室方向)

羨門の閉塞石

開口部

出土品出土品奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。


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