牧田明久
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

かつて楽天のほか、埼玉西武ライオンズなどに所属していた投手の「牧田和久」とは別人です。

牧田 明久東北楽天ゴールデンイーグルス 
二軍外野守備走塁コーチ #85
2024年3月
基本情報
国籍 日本
出身地福井県越前市
生年月日 (1982-06-03) 1982年6月3日(42歳)
身長
体重182 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り2000年 ドラフト5位
初出場2005年7月19日
最終出場2016年7月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


福井県立鯖江高等学校

大阪近鉄バファローズ (2001 - 2004)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2016)

監督・コーチ歴


東北楽天ゴールデンイーグルス (2020 - )

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

牧田 明久(まきだ あきひさ、1982年6月3日 - )は、福井県越前市出身の元プロ野球選手外野手、右投右打)。コーチ

大阪近鉄バファローズの最終年(2004年)に同球団へ所属していた選手の1人で、東北楽天ゴールデンイーグルスには創設1年目の2005年から在籍。現役引退後の2017年からは楽天の球団職員として「楽天イーグルスアカデミー」ジュニア部門のコーチを務める傍ら、野球解説者としても活動している。
経歴
プロ入り前

1982年に福井県越前市に産まれる。北日野小学校に通いつつ、地元の少年野球チーム「北日野マウンテンズ」で小学2年生から野球を始める。ポジションは主に投手。部活動で野球を続けながら越前市立万葉中学校から高校は鯖江市にある鯖江高校に進学した。甲子園出場経験はない[1]。中学・高校時代は投手で4番を務めた。

2000年のドラフト会議大阪近鉄バファローズから5位指名を受け、入団。高校時代は投手として140km/h以上を計測していたが、50メートル6.0秒の俊足、高校通算18本塁打という打力を買われ、外野手として入団した。背番号は63。
近鉄時代
2001年 - 2004年
近鉄時代は二軍での打率も1割台後半から2割台前半という成績で、一軍昇格のきっかけを掴めずに終わった。守備では、入団1年目は外野に専念していたが、当時の近鉄はタフィ・ローズ大村直之礒部公一をはじめとして層が厚かったため、出番を増やすため三塁手の守備にも挑戦した。オフに球団合併に伴う分配ドラフトを経て新たに創設された東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。
楽天時代楽天時代
(2016年4月23日 西武プリンスドーム
2005年
7月15日に負傷した飯田哲也に代わって一軍昇格。7月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフードーム)で代走として、プロ5年目にして一軍戦初出場を果たした。7月25日の対北海道日本ハムファイターズ戦(フルキャストスタジアム宮城)でのプロ初打席は死球となり、出塁後に初盗塁を記録した。7月30日の対埼玉西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)で延長11回表に打席に立ち、勝利につながるプロ初安打を打った。8月3日、対千葉ロッテマリーンズ戦でサードゴロを打ち、初打点を記録。この年は一軍戦に主に代走としての出場で13試合に出場した。二軍ではチーム2位の74試合に出場、打率.242、7盗塁(チーム2位)を記録した。
2006年
開幕二軍スタートとなったが、二軍では初戦を除き4番を務めた。5月19日に一軍登録。シーズン前半は打撃好調だったが、6月9日の対広島東洋カープ戦(岡山県倉敷スポーツ公園野球場)で頭部に死球を受け戦線離脱。6月27日に復帰直後は打率1割台と低迷した。しかし守備では貢献し、リーグ10位・チームではトップとなる補殺5を記録した。一方、盗塁成功率が5割未満と盗塁技術に課題を残した。監督の野村克也に「我慢して使おうという気にさせてくれる」と評価された。
2007年
4月12日の対西武戦(Kスタ宮城)で先発の松永浩典からプロ初本塁打を放つ。5月3日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で8回裏に公式戦では初めて三塁守備に就く(守備機会はなし)。8月4日のソフトバンク戦(フルキャスト宮城)で、本塁を狙った荒金久雄を好返球で封殺して逆転を阻止、球団史上初の「本拠地でのホークス戦6連勝」に貢献する。試合後、牧田の強肩について野村克也は「専守防衛の自衛隊のようだ」とコメントし[注釈 1]、以来「専守防衛」は牧田の代名詞となった。その後も守備固めとして多く起用され、初めてシーズン通して一軍に帯同した。また、鉄平の打撃不振もあって、相手投手次第では先発出場の機会も増えた。10月3日の対日本ハム戦(Kスタ宮城)で、本塁送球の際に右肘を痛め、12月に遊離軟骨の除去手術を受ける。秋季キャンプ、春季キャンプは別メニューで調整した。
2008年
前年に受けた右肘の手術の影響で一軍出場はなかった。二軍では40試合に出場し、打率.275、4本塁打、22打点の成績だった。守備では全力投球できないためか、左翼手としての出場が多かった。
2009年
監督の野村克也からの期待も大きく、自慢の強肩をオープン戦で披露し、開幕一軍入りを果たし、主に守備固めとして起用された。左投手が先発の時は時折スタメンで起用されたが、打撃で結果を残せず二軍と一軍を行き来するシーズンとなった。
2010年
開幕一軍入りを果たすとトッド・リンデン宮出隆自が不振に陥ったため左翼手としての出場機会が増加。8月13日の対ロッテ戦では成瀬善久から3年ぶりの本塁打を放つ。その後、長年に渡り課題とされていたバッティングで9月に月間4本塁打を記録し、終盤にはレギュラーとして定着。規定打席には達しなかったものの打率.291、6本塁打と長打力不足に喘ぐチームで奮闘した。反面、200打席近くに立ちながら4四球と選球眼に課題を残した。
2011年
キャンプの時点では右翼手のレギュラーを期待された[2]が、肩を痛めて開幕に間に合わず、復帰は6月半ばまでズレ込んだ。復帰直後は中村真人横川史学と併用で左翼手として起用されていたが、鉄平が不調で二軍落ちしてからは横川と併用で右翼手での出場が増えた。8月30日の対西武戦では2点リードの8回二死二・三塁の場面で中島裕之のライト前ヒットでホームに突入した二塁走者浅村栄斗を刺し、勝利に貢献した。夏場までは中々ヒットが出ず、スタメンを横川に譲ることも多かったが、9月に一気に調子を上げたことに加え、横川が二軍落ちしたため以降は右翼手のレギュラーとしてシーズン最後まで出場。一時は2割にも満たなかった打率は.268まで上がり、得点圏打率は.350を記録した。シーズンオフに背番号を5に変更した。
2012年
シーズン開始前から中軸として期待され[3]、開幕戦は3番でスタメン出場。その後もクリーンアップとして起用されるが、交流戦辺りから打撃不振と怪我によってレギュラーの座を外され、以降準レギュラーとして下位打線を打つようになる。前半戦は不振だったが後半戦以降は少しずつ状態を上げ、9月19日の対ロッテ戦(東京ドーム)では自身初の満塁本塁打[4]を含む2本塁打7打点の活躍で、2008年にホセ・フェルナンデスが記録した1試合の打点の球団記録に並んだ[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef