牧港補給地区
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牧港補給地区
キャンプ・キンザー
浦添市
牧港補給地区
キャンプ・キンザー

種類FAC6056
面積2,727,000u
施設情報
管理者沖縄の米軍基地 海兵隊
歴史
使用期間1945-

牧港補給地区 (まきみなとほきゅうちく) (Machinato Service Area)、あるいはキャンプ・キンザー(英語: Camp Kinser)は、沖縄県浦添市の西部(沖縄本島中南部の西海岸)に立地するアメリカ海兵隊兵站施設(基地)。元々は日本陸軍の南飛行場として建設されるが、未使用のまま米軍に接収され、牧港飛行場となる。1948年にさらに土地の強制接収を行い、補給基地として拡大された。

浦添市西部から浦添市北部にかけて長さ約3km、国道58号から西海岸にかけて幅約1km、市面積の約14%を占めている。戦後から沖縄の本土復帰前(沖縄返還前)にかけて、軍需物資の貯蔵や補給、修理などのための巨大な倉庫群・兵舎が建設され、米陸軍の極東随一の総合補給基地となった。現在は米海兵隊が管轄する。
概要

浦添市の国道58号から西側の海岸までの南北3km、東西1kmに及ぶ広大な土地を占有し、那覇新港や商業地区の西海岸と国道58号の間に位置し、都市計画と振興開発の大きな弊害となっている。

施設面積:2.694
km2[1] (2019年1月1日)

所有形態:国有地 0.290km2(全施設面積の約11%)、私有地 2.447km2(同約89%)

管理軍別:アメリカ海兵隊

推定兵力:約2,160人

使用用途別:倉庫

従業員数:1,154人[2]

管理部隊名:海兵隊キャンプ・バトラー基地司令部

使用部隊名:第3海兵兵站群司令部

使用主目的:宿舎、管理事務所及び補給処[3]

基地は 1. 倉庫地区、2. 隊舎地区、3. 住宅地区の3地区からなり、倉庫地区は国道58号線沿いに近接し、隊舎地区は施設の西側中央部に、住宅地区は施設南北に所在している。
名称について

キャンプ・キンザーという名称は、沖縄戦で戦死し名誉勲章を追贈された海兵隊員エルバート・ルーサー・キンザー先任伍長にちなむ。もともと、キャンプ・キンザーは沖縄市知花・登川に所在する基地 (現・キャンプ・シールズ) の名称であったが、牧港補給地区が陸軍から海兵隊に移管され、キャンプ・キンザーと改名された。1945年1月3日に米軍が撮影した日本陸軍「南飛行場」の空中写真。1945年12月10日に米軍が撮影した米軍「牧港飛行場」の空中写真。右側に普天間飛行場。この時期、住民は収容所に収容されていた。
歴史
日本陸軍 南飛行場

日本陸軍の「南飛行場」として建設、「仲西飛行場」とも「城間飛行場」とも呼ばれる。

1944年昭和19年)5月1日 - 浦添村の城間、仲西、小湾で日本陸軍沖縄「南飛行場」として工事が始まる。いったん9月30日に完成する。1830mの滑走路を持つ特攻用飛行場として建設されるが、使用されないまま放棄された[4]
第1166工兵隊による牧港飛行場の建設は本土攻略のため1945年6月1日から始まり7週間で完成した。
米軍 牧港飛行場

米軍が沖縄戦で1945年4月28日に日本軍南飛行場を確保、6月1日から7週間でマチナト飛行場 (Machinato Airfield) を建設し、使用を開始した。モシナワ飛行場 (Moshinawa Airfield) とも呼ばれた[5]。また牧港には沖縄戦の捕虜収容所 (牧港捕虜収容所) もあり、基地建設の労働力を担っていた。

1945年(昭和20年)4月28日 - 米軍が陸軍沖縄南飛行場を接収し、牧港飛行場を建設、戦後、物資集積所として使用される[6]

1948年(昭和23年)土地、2,650,000uを強制接収し補給基地として拡張される。天願桟橋から米陸軍第二兵站補給団が移駐する。
1970年の牧港補給地区。滑走路が倉庫地区となっている。左下に牧港住宅地区
牧港補給地区

1948年から陸軍の牧港補給地区 (Machinato Service Area) として使用。1968年から1972年まで米国民政府が所在。1978年に海兵隊に移管。

1965年10月20日 米陸軍の第7心理作戦群が発足し指令部が置かれる。

1968年1月8日 米国民政府が那覇市泉崎から移転。

1972年(昭和47年) 沖縄の本土復帰(沖縄返還)の際に、最高統治機関として同地域に設置されていた米国民政府が廃止され、牧港補給地区となった。

1974年(昭和49年)6月、第7心理作戦部隊解散。9月30日第15回安保協了承の土地約18,000u(北側部分2カ所)を返還。

1978年(昭和53年)米陸軍から米海兵隊に移管され、キャンプ瑞慶覧から第三海兵隊役務支援本部などが移駐した。

2018年(平成30年)3月31日、浦添市に所在する牧港補給地区の一部土地(国道58号沿い)が返還。
沖縄の米軍基地から朝鮮半島に向けて発信されていた「国連軍の声」(VUNC)。牧港補給地区のスタジオで収録され、平良川通信所から送信された。
第7心理作戦群

米軍が1950年の朝鮮戦争勃発によって再び土地の強制接収と住民の武力鎮圧 (銃剣とブルドーザー) を強めていくなか、当然、地元住民の大きな反発も招いた。米陸軍は沖縄戦での心理戦に一定の成果をみていたため[7]、1965年10月20日、第7心理作戦群 (7th psychological operation groups, 通称 "7th psyop) を沖縄で結成した。司令部は牧港補給地区のもっとも奥深くに置かれ、その実態は米国議会にも知らされない「謎の諜報部隊」といわれた[8]。第7心理作戦群は幾つもの心理作戦大隊や中隊を有し、様々な諜報心理戦活動を行った。

1971年から72年にかけて、この防諜部隊の存在は、瀬名波通信施設外国放送情報局 FBIS (CIAの電波傍受機関)、知念補給地区 (キャンプ知念) のCIA拠点、国務省管轄のVOA通信所とともに、国会の沖縄・北方特別委員会沖縄返還協定特別委員会で問題化され、第7心理作戦群は1973年10月11日に沖縄から撤退、ノースカロライナ州フォートブラッグ基地に本部を移転したが、1974年6月30日にその地で解散した。その後、再び再結成され1975年10月30日にカリフォルニア州サンフランシスコのプレシディオに本部を移した[9]。なお、フオートブラッグ基地内の第82空挺師団戦争記念博物館には沖縄戦で用いられた心理戦のビラが保管されている[10]

施設番号名称第7心理作戦群
FAC6056牧港補給地区司令部
FAC6057牧港補給地区補助施設第7心理作戦部隊倉庫
FAC6034平良川通信所ラジオ隊

小湾地域

小湾は同市で唯一、全地域が同基地に収容された字である。そのため小湾住民は宮城に移住させられた。現在は僅かに基地外にも小湾地域はかかっているもののエフエム沖縄や沖縄食糧などがあるのみで住宅地はない。なお、小湾という名称は、宮城の「小湾自治会」や県道251号(パイプライン)の「小湾バス停」として残っている。
キャンプキンザーで撮影された、ベトナムから引き揚げられた化学物質の集積場の様子。(1971年5月11日)牧港補給地区での CBRN 対策訓練の様子。CBRN とは、化学(Chemical)、生物(Biological)、放射性物質 (Radiological)、核(Nuclear)を用いた兵器はそれぞれの頭文字をとってCBRN兵器と呼ばれる。
基地汚染

1973年 昭和48年4月 - 廃油流出により沿岸帯が広範囲にわたって汚染される

1974年 昭和49年12月19日 - 野積みのまま放置されていた薬物が容器の腐食で海へ流出し沿岸一帯を汚染し、多量の魚類が死滅。

1975年 昭和50年1月 - 薬物の流出により沿岸一帯が広範囲にわたって汚染される。8月 - 薬物流出牧港補給地区内の自動車整備場から車体洗浄用薬剤が流出し海岸一帯を汚染。同クリーナーの残液から 高濃度の
六価クロムカドミウム等の有害物質が検出される。


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