牧氏事件
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牧氏事件(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。
発端

鎌倉幕府創設者である初代将軍源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は11歳の3代将軍源実朝を擁する執権の北条時政が握っていた。

比企能員の変の翌月の建仁3年(1203年)10月、時政の後妻牧の方の娘婿の武蔵守平賀朝雅京都守護のため上洛。朝雅の上洛後に時政が将軍実朝の命によって武蔵国務職に任じられ、武蔵国衙の行政権を掌握していた。時政の武蔵進出は、武蔵武士団の棟梁である時政の前妻の娘婿畠山重忠の勢力圏への進入であり、比企能員の変後の戦後処理を巡って時政と重忠は対立する関係となっていた。『明月記元久元年(1204年)正月18日条によると、都で「北条時政が畠山重忠と戦って敗北し山中に隠れた。大江広元がすでに殺されたとのことだ。」という風聞が流れ、広元の縁者がそのデマに騒ぎ荷物を運び出す騒動になるなど、両者の対立は周知のこととなっていた。

同年11月、京の朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(西八条禅尼)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠の嫡子重保との間で言い争いとなる。周囲の取りなしで事は収まったが、さらに重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死した。そして政範の埋葬と、重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。なお、『吾妻鏡』では実朝の正室を迎える使者として上洛した御家人の代表を政範1人としているが、『仲資王記』元久元年11月3日条によると時政もともに上洛していたことが確認される[1]

島津家文書』によると、時政は娘婿であった重忠父子を勘当したが、元久2年(1205年)に千葉成胤のとりなしによって両者はいったん和解している[2]。しかし、重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。このとき、時政の息子である北条義時時房は、重忠とは義兄弟かつ友人関係であり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く[3]。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした(畠山重忠の乱)。しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった。ただしこの経緯は父を追放した義時らの背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であるとの説もある。

また政範の死は北条家の家督問題を引き起こしたと考えられる。北条氏の嫡男は元々は義時の同母兄であった宗時と推定されるが、宗時が治承4年(1180年)に戦死した後、後室である牧の方が生んだ政範が嫡男とされ、前室の子であった義時は北条氏の庶流である「江間家」を起こして頼朝に近侍し、将来的には庶長子の泰時が江間家を継ぐ予定であったと考えられている。しかし、政範の死で今後のことが不透明になってしまった。細川重男は時政は義時の次男で最初の正室が生んだ朝時を後継者に迎える策を立てようとしていたとしている[4]


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