同音異字のSF研究者については「牧眞司」をご覧ください。
牧 伸二
プレイグラフ社『落語など』創刊号(1966年)より
本名大井守常
ニックネームマキシン
生年月日 (1934-09-26) 1934年9月26日
没年月日 (2013-04-29) 2013年4月29日(78歳没)
出身地東京都目黒区
言語日本語
最終学歴東京中学校[1]
師匠牧野周一
芸風ウクレレ漫談
事務所佐藤事務所⇒牧プロダクション
活動時期1957年 - 2013年
過去の代表番組『大正テレビ寄席』
『マキシンの東芝ハレハレ555』
など
他の活動司会者
俳優
東京演芸協会会長(第6代)
弟子泉ピン子
牧ひろし
牧のぼる
牧正など
公式サイト牧伸二ホームページ
牧 伸二(まき しんじ、本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月29日)は、日本のウクレレ漫談家、司会者。牧プロダクション所属。東京演芸協会第6代会長。
ハワイアンをアレンジした曲に、「やんなっちゃった」などのフレーズで社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。ベテランになってからもレゲエやロックンロールに挑戦した。弟子に泉ピン子、牧ひろし(現・所属事務所社長)、牧田博(牧野周一一門。弟弟子)、牧タカシ、牧のぼる[2]、牧正、藤井康一(牧伸三)らがいる。 東京都目黒区で板金屋の5人兄姉の末っ子として出生し、間もなく向島に転居。戦時中は岩手県の寺に疎開、中学の1年後輩に立川談志がいる。夜間高校に通いながら1950年7月からは ⇒(株)東亜計器製作所に勤める。高校1年のころ牧野周一の漫談をラジオで聞き、浅草の話術同好会「話術クラブ」に入る。この頃は楽器を持たない声帯模写を得意とした。 高校卒業後、1957年にラジオ東京(現TBSラジオ)の『しろうと寄席』で7週連続で名人位を獲得。この実績をもって牧野に正式入門を許され、牧伸二の芸名をもらうと共に、ウクレレ漫談を薦められた。当初の芸名は「今何度」(いま なんど)。当時勤務していた東亜計器が温度計を製造していることに由来する。1962年に結婚した妻は東亜計器の専務の一人娘である[3]。 無名時代に美空ひばりの地方公演巡業の前座を務めた際、漫談が余りにも面白く会場を沸かせるため、ひばり母子に気に入られ、ひばりの母は「牧さんは今にスターになるわよ。見ててごらんなさいな」と、近い将来のブレークを予言していたという[4]。 歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』で人気者になり、早くも1960年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。この『やんなっちゃった節』は、『タフアフアイ』(英題"Hawaiian War Chant
来歴
1963年には日本教育テレビ(現テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組終了の1978年まで15年にわたり司会を務め、番組内の名物コーナー『マキシンのバーゲンセール』を通じて『あゆみの箱』チャリティー活動に貢献した。また九州朝日放送の素人演芸会『マキシンの東芝ハレハレ555』等でも司会を務めた。司会業と並行して寄席にも出演を続けており、自身の所属する東京演芸協会の定席興行のほか、落語協会の正月初席などにも客演している。
1965年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
1973年?1983年の間、日劇で『牧伸二ショー』公演を開催。
1976年、長門裕之、愛川欽也が中心となり発足した、昭和9年(1934年)生まれの芸能人による親睦組織「昭和九年会」に参加。
1989年、デビュー以来在籍した佐藤事務所の解散に伴い、株式会社牧プロダクション(社長は弟子の牧ひろし)に所属。
1999年、3月に死去した前会長・桜井長一郎の後を受け、東京演芸協会の第6代会長[5]に就任[6]。
2002年に脳出血で療養とリハビリを余儀なくされるが、復帰後の2003年に文化庁長官賞を受賞。
2011年7月3日、自宅でタバコの火の不始末からボヤを起こした。自身と妻、娘の3人で消火にあたり、消防車が到着した頃にはほぼ鎮火していた[7]。
2013年4月28日13時半にお江戸上野広小路亭で舞台に出演後、「少しお茶を飲んでくる」と言って席を立って14時頃に浅草の喫茶店に立ち寄り、30分ほどで出た後は16時10分から浅草東洋館で予定されていた出番に出演せず、行方がわからなくなった[8][9]。