出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年4月)
台湾出兵
征台の役
台湾事件
牡丹社事件
台湾出兵
戦争:台湾出兵
年月日:1874年5月6日 - 12月3日
場所:台湾南部
結果:清は被害民への撫恤金(見舞金)を支払い、台湾の諸設備費等を出費した。また、琉球の日本帰属が国際的に承認される形となった。日本は生蕃に対し法を設ける事を要求した。
交戦勢力
明治政府パイワン族
指導者・指揮官
西郷従道[1]阿禄古
台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に台湾原住民による日本人漂流民虐殺事件を理由に日本が行った清国領台湾への軍隊派遣である[1]。「征台の役」、「台湾事件」ともいう[1]。日清両国互換条款が調印により、清国が日本の出兵を認めて虐殺被害者に見舞金を支払うことを条件に日本は撤兵に同意することにより事件は解決した。この事件により、また琉球の日本帰属が国際的に確認される形となった[1]。 1871年(明治4年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件(宮古島島民遭難事件)が発生した。この事件に対して、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」としたことが責任回避であるとして、日本側が犯罪捜査などを名目に出兵した。原因が54人殺害という大規模な殺戮事件であることを理由に、警察ではなく軍を派遣した。開国後の日本としては初の海外派兵である[2]。 征台の役(せいたいのえき)、台湾事件(たいわんじけん)とも呼ばれる。また、宮古島島民の遭難から台湾出兵に至るまでの一連の出来事を牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)と呼ぶこともある[3]。 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは意思疎通ができず、12月17日に遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し、54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され、台湾府の保護により、福建省の福州経由で宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めたが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し、責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生した[4]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。 宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ合衆国公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。 外務卿の副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。 1873年、特命全権大使として清に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[4]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[4]。
概要
経過
発端・背景
開戦準備へ副島種臣