牟田口廉也
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中将時代の牟田口
生誕1888年10月7日
日本 佐賀県
死没 (1966-08-02) 1966年8月2日(77歳没)
日本 東京都 調布市
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1910年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
勲章 勲一等瑞宝章ほか
除隊後 
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牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年明治21年)10月7日 - 1966年昭和41年)8月2日)は、日本陸軍軍人陸士22期陸大29期。最終階級は陸軍中将盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
生涯
軍人官僚として参謀本部に勤務する佐官時代の牟田口廉也

佐賀市(現)で三人兄弟の次男として出生[1]。生家の福地家は鍋島藩の士族として古い家柄で、実父の福地信敬も官吏として公務に就いており、下関条約で日本領となった台湾で裁判所書記官を務め、のちに判事に任用された[2]。しかし、家庭環境には恵まれておらず、廉也は後年になって、実父のことをほとんど語ることはなく「兄と私は孤児同様にして育った」と振り返っている[3]

廉也の実母の生家は、福地家の遠縁にあたる同じ佐賀藩士族の牟田口家であったが[1]、後継ぎがなかったことから、早くから廉也は牟田口家を継ぐことが両家の間で決められており[3]、小学校3年の時に[1]、牟田口衛常の養嗣子となった[4]。福地家は、長男が早逝したため、三男の福地英男が継いだが、英男は海軍機関学校(24期[4]・首席[1])を卒業して海軍機関科将校となり、1945年(昭和20年)の広島市への原爆投下により戦死、海軍中将[1]

県下の秀才が集まる佐賀中学(現:佐賀県立佐賀西高等学校)に入学した牟田口は、約200人の生徒の中で10番ぐらいと成績優秀であったが、書道[注 1]体育が苦手であった[5]。佐賀中学2年生の時に熊本陸軍地方幼年学校に入校し、陸軍中央幼年学校(後の陸軍予科士官学校)に進んだ。幼年学校出身の軍人の中には、花谷正中将のようにエリート意識を振りかざして中学校出身の軍人を見下す者もいたが[7]、牟田口は幼年学校出身の軍人について「世の風波にもまれる機会に乏しく人間学の修養において欠けるところがあった」と冷静に自己評価している[8]

その後、陸軍士官学校(22期)に進み、1910年(明治43年)に卒業した。同期であった村上啓作と親しく、その真面目な勉強ぶりを見て牟田口は敬服し、将来を嘱望していた。村上は牟田口の見立て通り、陸軍士官学校と陸軍大学校を優等で卒業したが、終戦後にシベリア抑留され病死している。卒業前の習志野演習場での野営訓練では、当時の教育総監であった大島久直大将から直々に指導を受けて、その日露戦争での実戦経験に基づく的確な指導や威厳のある風貌に牟田口は感激している[8]

陸軍士官学校卒業後は、歩兵第13連隊での隊付士官候補生として勤務し、その後少尉任官。1914年から1917年にかけて陸軍大学校(29期)在学。難関の陸軍大学校へ中尉になってすぐに合格入校しており、荒川憲一は「下級将校時代はいわゆる優等生であったことは間違いない」と評しているが、成績は全57人の卒業生のなかで25位と平凡なものであった[9]。そのため、陸大卒業後は参謀本部でも花形の作戦部(第1部)ではなく裏方の運輸部船舶班に配属された[10]。以降は累計18年間に渡って参謀本部や陸軍省といった陸軍中央で勤務することとなり、典型的軍人官僚としてキャリアを積んでいく[11]。大田嘉弘によれば、若いころに陸軍省勤務であった経験が人事を軽く見る後の行動につながったという[12]

陸大在学中の1916年には、福地家・牟田口家と同じく佐賀県士族である末永家(東京で酒類販売会社を経営して成功していた)の娘と結婚した[13]。牟田口の妻は、東京府立第三高等女学校(現:東京都立駒場高等学校。才媛の集まる学校として知られていた)を卒業していた[13]。牟田口夫妻は2人の男子に恵まれた[13]。なお、長男は陸軍将校を目指すのを止めて東京大学法学部に進んだが、これは、牟田口の妻が、長男が陸軍将校になるのに反対したためであり、牟田口は妻と長男の判断に一切口を挟まなかった[13]

1919年(大正8年)にはシベリア出兵に伴う調査のためにカムチャツカ半島への潜入を命じられ、借用した背広を着用してペトロパブロフスクスパイ活動を行っている[14]。1920年(大正9年)に大尉に昇進したとき、尼港事件が発生、事件当時ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名にしか過ぎず、参謀本部は非常時に備えて津野一輔少将を指揮官とする北部沿海州派遣隊の現地への派遣を決定し、牟田口も参謀の1人として派遣されることとなった[15]。このときに牟田口は運輸部船舶班勤務ながら、派遣計画作成をほぼ一任されて、現地における部隊編成、上陸要領、艦船配備、戦闘計画まで細かに作成したが、この経験が後の牟田口のキャリアに役に立つこととなった。ニコラエフスクに到達するためには、アムール川河口に構築されたチニーラフ要塞を突破する必要があったが、要塞は約4mの擁壁に囲まれており、牟田口は要塞を前にしての敵前上陸を覚悟していた[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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