牛頭天王
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牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた[1]蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来垂迹であるとともにスサノオ本地ともされた。京都東山祇園播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない[1]
概要

牛頭天王は、京都の感神院祇園社(現八坂神社)の祭神である。

『祇園牛頭天王御縁起[2][3][4]』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわした[5]

太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤いもあった[3][注 1]。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする人さえいない。牛頭天王はびたりの毎日を送るようになった[5]

3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽のがあらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王はを娶りに出かける[5]

旅の途次、長者であるの古單將來に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏蘇民將來は歓待して宿を貸し、粟飯を振舞った。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、のちに蘇民は富貴の人となった[5]

龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごす間に七男一女の王子八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、古単への復讐を図った。古端は千人ものを集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという[3]。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単のだけを蘇民将来の娘であるために助命して、「をつくって、赤の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した[5]

以上が、『祇園牛頭天王御縁起』の概要である[注 2]
牛頭天王の神格

牛頭天王の神格についてはさまざまな説があり、江戸時代から明治時代にかけて復古神道の影響下で主張されたスサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、神仏分離国家神道の政治的な影響が大きいともいわれ、定説は確立していない[6]

牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきた[7]が、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが京都の祇園祭の起源である[6][8]

これについて、当時は疫病は異国からの伝染と考えて、異国由来の疫病神として牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある[8]。いずれにせよ、牛頭天王は、子の八王子権現眷属とともに疫病を司る神とされたのである[8]
『備後国風土記』等にみえる牛頭天王

鎌倉時代後半の卜部兼方釈日本紀』に引用された『備後国風土記逸文(詳細後述)では、「牛頭天王」の表記はなく、「武塔神」および「速須佐雄」と記述され、富貴な弟の巨旦将来と貧しい兄蘇民将来の説話を記している。それに対し、『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト(大国主)の荒魂が牛頭天王であると解説する[5]

また、平安時代末期に成立した『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、牛頭天王は天竺の北にある「九相国」の王であるとしている[5]
スサノオとの習合・朝鮮半島との関係

日本書紀』巻第一神代上第八段一書[注 3]に、スサノオ(素戔嗚尊)が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨ソシモリ)という地に高天原[注 4]から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述[注 5]があるが、この伝承に対して、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説[6][8]がある。ただし現代のハングル表記による朝鮮語と古代の新羅語では発音が異なっていたとして、この説に対する異論もある[6]

また、ソシモリのソは蘇民のソで、蘇民は「ソの民」であるとして、蘇民将来説話と『日本書紀』のスサノオのソシモリ降臨と関連づける説もある[8]

祇園神が鎮祭されたのは、奈良時代以前に遡るとされ、記録の上では詳細不明である。八坂神社が1870年(明治3年)に出版した『八坂社舊記集録[注 6]』上[9]中下[10](紀繁継 『八坂社旧記集録』『八坂誌』ともいう)巻頭に承暦3年(1079年)の年代の記された記載を謄写した[注 7]という「八坂郷鎮座大神之記」には八坂郷鎮座大神之記

齊明天皇即位二年丙辰八月韓國之調進副使伊利之使主
再來之時新羅國牛頭山座須佐之雄尊之神御魂齋祭來而
皇國祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造之姓十二年後
天地天皇御宇六年丁 社號為威神院宮殿全造營而牛頭
山坐之大神乎牛頭天王奉称祭祀畢
淳和天皇御宇天長六年右衞門督紀朝臣百繼尓感神院祀
官並八坂造之業賜為受續
     奉齋御神名記
神速須佐乃男尊           中央座 ? 『八坂社舊記集録』上[11]

とあり、斉明天皇2年(656年)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したとき新羅国の牛頭山の須佐之雄尊を祭ると伝えられる。


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