牛丼(ぎゅうどん)とは、薄く切った牛肉とタマネギなどを醤油などで甘辛く煮込み、丼に盛った飯の上に載せた日本料理である[1]。
後述のすき焼き丼の名残で、しらたきを一緒に煮込むこともある。別称として牛飯(ぎゅうめし)や牛めし(ぎゅうめし)がある[1][2][3][4][5]。 牛丼は牛鍋を丼飯にかけた料理が原型で、当時は「牛めし」と呼ばれ、明治時代に誕生した[3][4]。「牛丼」の名称は、吉野家を1899年(明治32年)に創業した松田栄吉
概説
牛丼は醤油ベースで調味されることが多いが、神戸らんぷ亭が2010年1月25日に発売した日本初の「塩牛丼」は味付けに塩ダレを使用している[8][9][10]。また、神戸らんぷ亭は、「味噌牛丼」も期間限定で提供し、醤油・塩・味噌の「牛丼3兄弟戦略」を2010年に展開した[11]。このほか、牛肉を焼く調理法を採用したメニューでも牛丼の範囲として扱う場合があり、その際は「焼き牛丼」と呼ばれ、東京チカラめしがこれを主力として売り出した[12][13][14]。しかし、神戸らんぷ亭は牛丼事業を廃業、東京チカラめしも規模を大幅に縮小している(後述)。 牛丼の源流に該当する料理は牛鍋であり、1862年(文久2年)横浜入船町の居酒屋「伊勢熊」が店の半分を仕切り、日本初の牛鍋屋を開業したとされる[3][15]。幕末から明治時代初期の牛肉は硬く獣臭さが目立ち、それらを緩和するために関東の牛鍋は紅葉(鹿肉の別名)鍋に類似した内容で、具材は牛肉(当時はまだ薄切り肉の使用が定着しておらず、角切り肉を使う場合もあった)・ネギのみで味噌仕立ての味付けで煮る・炒め煮にする調理法が主流で[16][17][18]、ネギを五分(一寸の半分で約16 - 17mm)の長さに切ったことから、明治初期には具材のネギが「五分」と呼ばれたこともあった[4]。明治時代の文明開化により牛肉を食べる習慣が広まり、東京・芝に外国人向け食肉加工場が完成[19]などの要因から肉質が良くなるにつれ、関東地方の味付けは味噌から醤油と砂糖などを調合したタレ(割下)が主流になっていった[18]。1877年(明治10年)には、東京での牛鍋屋は550軒を超えて大流行となっていた[18]。1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜以外にも白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなっており、これらを沢山の割下で煮た牛鍋が関東風すき焼きの原型となった[4][19]。 牛丼は前述のように牛鍋を丼飯にかけた料理が原型となっており[3]、当時は牛飯もしくは牛めしという名称で1890年代には発売されており、この時期の東京にはあったが京阪には無かった[4]。その後、1899年に創業した吉野家の牛丼も同様の料理であり、当時は「牛鍋ぶっかけ」と呼ばれ、主客である日本橋の魚河岸の人々に親しまれた[20][21]。浅草や上野の広小路一帯にも牛丼の屋台が沢山出ており、そこでは「かめちゃぶ」の俗称も使われた[4][22]。
歴史