版籍奉還
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版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治維新の一環として全国のが、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日1869年7月25日)に勅許された[1]
経緯
府藩県三治制「府藩県三治制」も参照

明治維新で発足した新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、直轄地として支配した。

戊辰戦争中の慶応4年(明治元年)1月から4月(1868年2月から5月)にかけて、新政府は直轄地の統治機関として裁判所を設置した。続いて同年閏4月21日6月11日)には、政体書府藩県三治制が定められた。一方で、この明治元年の段階では、藩は府県と並ぶ地方機関と位置づけられ、直轄地以外の諸藩の本領は安堵されてその領主権に大きな制約は加えられなかった[2]

「藩」や「幕藩体制」は歴史学の用語であり、江戸時代には公式には「藩」という語で大名の領地を呼ぶことはなかった。「藩」は一部の学者などが書物などで使用するのみだった。

幕末になると大名のことを中国式に「諸侯」と呼ぶことが一般化する。それとともに大名の領地も中国式に「藩」と俗称することが増えていった。それでも「藩」という語が行政区の名称として公式に使用されたのは明治維新後のことで、廃藩置県で藩が消滅するまでのわずか2年程度のことだった。
新政府内での版籍奉還論の形成

新政府では、薩摩藩寺島宗則森有礼長州藩木戸孝允伊藤博文らが封建的な幕藩体制の限界を指摘し、その改変を主張した[3][4]

慶応3年(1867年)11月、薩摩藩の寺島宗則が土地と人民を朝廷に返還するよう求める建白書を藩主の島津忠義に提出した[5]。島津忠義は、慶応4年2月に親兵創設の費用として10万石を「返献」している。

慶応3年(1867年)12月、長州藩の木戸孝允は第二次長州征討で長州藩が占領していた豊前・石見を朝廷に返還するよう藩に提案した。長州藩は、慶応4年1月に豊前・石見の返上願を出し、それをうけた新政府は、長州藩の預地とするよう指示した。

木戸孝允は、慶応4年(1868年)の2月と7月に版籍奉還の必要を建言している。伊藤博文は兵庫県知事を務めていた明治元年(1868年)10月に、木戸と同様の郡県制論と、戊辰戦争後の凱旋兵士を再編して新政府軍の常備軍とする意見書を出し、明治2年正月には同じ趣旨の国是綱目(兵庫論)を提出している。その間、明治元年11月に姫路藩主の酒井忠邦は、伊藤博文の建白と連携する形で版籍奉還の建白書を提出した。
諸藩の状況

この頃、日本中の諸藩では、財政問題や戊辰戦争における藩内の内紛があった。江戸時代、各藩主は代替わりごとに領地の所有を将軍に承認されていたが、徳川幕府の瓦解によって領地所有の法的根拠が失われていた。また、戊辰戦争においては近代兵器を用いた戦争に藩主はほとんど指導力を発揮できず、藩内において藩主の権威が失墜していた。さらに、戦乱による被害と藩の権威の低下により、戦闘の場となった関東や東北などでは農民一揆が続発して年貢の徴収も滞りがちであった。

酒井忠邦が版籍奉還の建白書を提出した背景にも藩内の内紛があった。姫路藩では、戊辰戦争において朝敵とされた徳川家の処遇や、徳川家と酒井家の主従関係が否定される事に不満を抱いた元藩主酒井忠績江戸幕府最後の大老)が明治元年5月に独自に所領没収を嘆願する嘆願書を新政府に提出し、その結果、同藩の佐幕派が粛清される事件が起きた。その後実権を握った尊王派は、急進的な国政改革を志向するとともに、忠績の路線を吸収する形で藩制度を改革してより中央の統制が働く県への移行を求める建白書を提出した[6]
版籍奉還の上表

明治2年1月14日、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣土佐藩板垣退助が京都円山端寮で、薩摩藩の吉井友実が持参した草稿を元に版籍奉還についての会合を行った[4]。3藩は合意し、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主、薩摩藩の島津忠義、長州藩の毛利敬親、土佐藩の山内豊範、肥前藩の鍋島直大が連名で新政府に対して明治2年1月20日に版籍奉還の上表を提出した。上表は、国立公文書館で公開されている[7]

版籍奉還の上表では、王土王民思想を大義名分に掲げて諸侯が土地や人民を「安ゾ私ニ有スベケンヤ」(私有すべきではない)とする一方で、「朝廷其宜ニ処シ、其与フベキハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ」とし、土地や人民の所有の結末についてはあいまいに表現した。

その後、諸藩からの奉還上表の提出が相次いだ。1月28日までに鳥取藩佐土原藩越前藩熊本藩大垣藩などが提出し、5月3日までにはわずかの藩を除く262藩主が提出した[8]。当時新政府にいた大隈重信は、諸藩はいったん返上した土地や人民は政府から再交付されると期待あるいは誤解していたという見解を回想録に記している[9]

新政府は薩長土肥の上表を「忠誠の志、深叡感被思食候」とし、天皇の東京再幸後に改めて会議を開き公論を集めて決定するとした。東京再幸は明治2年3月末に行われた。
侯伯大会議の開催

明治2年5月21日、政府は五等官以上の官員や親王、公卿などを東京城大広間に集め、上局会議を開催した。この会議では、皇道興隆、蝦夷地開拓とともに、知藩事被任の件が諮詢され、版籍奉還の意見交換が行われた[10]

各藩の公議人を議員とした公議所では森有礼の提案により、将来の選ぶべき方向を封建と郡県のどちらにするのかが議論された。諸藩の反応は、郡県制が103藩、封建制が102藩であった。郡県制を主張するのは、藩体制の維持が困難となっていた中小藩が多かった。
版籍奉還の実施

明治2年6月17日に版籍奉還は勅許された。同日、太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」が公布され、華族制度が創設された。旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に華族に列せられた。士分の藩士は藩主一門の別家を含めて士族とされた。

版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に任命されたが、例外として、御三卿維新立藩したばかりの田安藩一橋藩は版籍奉還するも、旧藩主は知藩事に任命されず廃藩を命じられた。一方で知藩事と陪臣であった藩士が、同じ朝廷(明治政府)の家臣(「王臣」)とされる事で朱子学に基づいた武士道(近代以後の「武士道」とは違う)によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定することになるものであり、諸藩の抵抗も予想された。そこで版籍奉還の実施に際してはその意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。もっとも、公議所では賛否の両論が伯仲したため、半数弱の公議人の署名による両論折衷の答申を出し、政権から失望されている。これに前後して戊辰戦争恩賞である賞典禄について定めることで倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らした。

このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わった。
奉還後

地方知行が廃止され、一律に蔵米知行とすることが義務化された。各藩の財政や統計の報告が命じられ、知藩事の家禄は各藩の全体収入の10分の1と定められた。また全体収入の9%を陸海軍費とすることが定められ、その中から半分の4.5%を海軍費として政府に上納することが課された。加えて、戊辰戦争で悪化した藩財政を建て直すための禄制改革が政府から命じられ、高禄の上士層を中心に禄高が削減された。

知藩事と藩士の主従関係が形式上は否定され、政府が藩士を登用する際には藩に問い合わせることなく行うようになった。また、従来の家老に相当する参事[注 1]奏任官とされ、政府から下される官記により正式に任命されることとなった。

江戸時代は財政などの藩の内情の幕府への報告は求められず、藩内人事や俸禄も原則としては藩の専権事項であったが、版籍奉還により中央集権化が進むこととなった。
年表

日付はいずれも旧暦[注 2]


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