片町駅
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JR東日本信越本線の「潟町駅」とは異なります。

片町駅
かたまち
Katamachi


所在地大阪市都島区.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度41分39秒 東経135度31分45秒 / 北緯34.69417度 東経135.52917度 / 34.69417; 135.52917座標: 北緯34度41分39秒 東経135度31分45秒 / 北緯34.69417度 東経135.52917度 / 34.69417; 135.52917
所属事業者西日本旅客鉄道(JR西日本・駅詳細
京阪電気鉄道駅詳細
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片町駅(かたまちえき)は、かつて大阪府大阪市都島区片町二丁目にあった西日本旅客鉄道(JR西日本)・京阪電気鉄道廃駅)である。

JR西日本の片町線(学研都市線)、京阪電気鉄道の京阪本線が乗り入れていた。両社の駅は鯰江川(現在は埋立)に架かっていた野田橋を挟んで所在していたが、現在はいずれも廃止されている。また、大阪市電天満橋善源寺町線片町停留場も近くにあった。

JRの駅は特定都区市内制度における「大阪市内」に属していた。
歴史
国鉄→JR西日本

1895年明治28年)8月22日浪速鉄道の駅として四条畷駅 - 当駅間の開業と同時に開業[1][2]

1897年(明治30年)2月9日:浪速鉄道を関西鉄道に譲渡。

1898年(明治31年)11月18日:旅客営業廃止[1]

1905年(明治38年)1月1日:旅客営業再開[3]

1907年(明治40年)10月1日鉄道国有法により国有化、帝国鉄道庁の駅になる[1]

1912年(明治45年)4月21日:城東線京橋駅との乗り換え駅の便を図るため、京橋口乗降場を開設。

1913年大正2年)11月15日:京橋口乗降場を格上げし、城東線乗り換え駅となる京橋駅として分離。

1970年昭和45年)10月1日:貨物の取り扱いを廃止[1]

1985年(昭和60年)3月14日荷物扱い廃止[1]

1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる[1]

1988年(昭和63年)3月13日:路線愛称の制定により、「学研都市線」の愛称を使用開始。

1991年平成3年)春頃:JR東西線の工事開始に伴い旧駅舎と旧ホーム撤去、仮駅舎に移行。

1997年(平成9年)3月8日:JR東西線の開業に伴い廃止[1]。線路切替工事の為、前日(3月7日)21時30分をもって営業終了[4]

京阪電気鉄道

1910年(明治43年)4月15日:「野田橋駅」として開業。

1925年(大正14年)6月20日:大阪市電天満橋善源寺町線の開通に伴い、市電との平面交差を設置。

1945年(昭和20年)8月14日空襲により全焼。

1955年(昭和30年)

1月1日:「片町駅」に改称。

1月31日:駅位置を交差点東側から西側に移転[5]


1968年(昭和43年)12月18日:大阪市電の路線廃止に伴い、市電との平面交差がなくなる。

1969年(昭和44年)11月30日:廃止。

JR西日本

JR 片町駅
留置線(左)と2番ホーム(1989年)
かたまち
Katamachi

京橋 (0.5 km)
所在地大阪市都島区片町二丁目
所属事業者西日本旅客鉄道(JR西日本)
所属路線■片町線(学研都市線)
キロ程45.3 km(木津起点)
電報略号カチ
駅構造地上駅
ホーム2面2線
乗車人員
-統計年度-7,565人/日(降車客含まず)
-1996年-
開業年月日1895年明治28年)8月22日
廃止年月日1997年平成9年)3月8日
備考 大阪市内
(※ホームの構造は駅廃止時点)
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概要国鉄片町駅舎(1986年12月)

浪速鉄道の都心側のターミナルとして、東成郡鯰江村大字新喜多新田(当時)に建設された駅である。当時の大阪市街の北東端であった相生町にできる限り近接させた駅で、駅名の「片町」は、相生町がもともと京街道の北側にしか家屋がない片側町だったことに由来する(詳細は片町 (大阪市)を参照)。

鯰江川と寝屋川に挟まれた狭小な土地で駅前が非常に狭かったため、関西鉄道への合併後、一時は放出駅から路線を分岐させる形で近隣に設けられた網島駅へ旅客扱いを譲り、貨物駅となったこともあったが、国有化後に城東線(現在の大阪環状線)の京橋駅に隣接するようにして設けられた片町駅京橋口を京橋駅として分離し、それと入れ替わる形で網島駅を廃止したことによって、片町線の終点駅としての地位に落ち着いた。

しかし、京橋駅(当駅からの営業キロは0.5 km)は城東線や京阪本線との乗り換え駅として栄える反面、利用者が少なく、接続もない当駅の地位は低下し、JR東西線開業に伴い廃止となった。

当駅の廃止と同時に、入れ替わるようにして大阪城北詰駅[注釈 1]が近地に開業[6]し、事実上の代替となっている。大阪城北詰駅の計画段階での仮称駅名は「片町」であった。ただし、駅の移転・改称ではなく別駅の扱いであるため、当駅を起・終点とする定期券や回数券は、当駅が廃止された後は継承されなかった。

当駅廃止後も路線名は変わっていないが、JR西日本では片町線に「学研都市線」の愛称を付けているため、案内上では片町の名はあまり使用されなくなっている。なお、「学研都市線」の愛称は当駅廃止後に付けられたのではなく、国鉄分割民営化から1年後の1988年からすでに使用されていた。
駅構造

1997年3月7日の廃止時は相対式ホーム2面2線を持つ頭端式地上駅で、どちらのホームからも放出・四条畷・長尾・松井山手・同志社前・木津行の列車が発車していた。これは1991年3月からJR東西線工事本格化に際して旧駅舎が撤去されたのちに建設された、簡易な駅舎・ホームであった。

東西線工事が始まるまでは、島式ホーム1面2線に留置線2線を加えた頭端式の地上駅、駅舎は2階建てのコンクリートモルタル造りであった。


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