片渕須直
[Wikipedia|▼Menu]

かたぶち すなお
片渕 須直
第32回東京国際映画祭にて
生年月日 (1960-08-10) 1960年8月10日(61歳)
出生地 日本 大阪府枚方市
国籍 日本
職業映画監督
アニメーション演出家
脚本家
ジャンルアニメーション映画
テレビアニメ
配偶者浦谷千恵
事務所クロブルエ
主な作品

テレビアニメ

名探偵ホームズ』(脚本

名犬ラッシー』(監督

BLACK LAGOON』(監督・シリーズ構成・脚本)

アニメーション映画

アリーテ姫』(監督・脚本)

マイマイ新子と千年の魔法』(監督・脚本)

この世界の片隅に』(監督・脚本)

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀アニメーション作品賞
2016年この世界の片隅に
ブルーリボン賞
監督賞
2016年『この世界の片隅に』
その他の賞

芸術選奨
映画部門文部科学大臣賞(2017年)
キネマ旬報ベスト・テン
監督賞(2017年)
読者選出日本映画監督賞(2017年)
高崎映画祭
ホリゾント賞(2017年)

テンプレートを表示

片渕 須直(かたぶち すなお、男性、1960年8月10日 - )は、日本アニメーション監督脚本家大阪府枚方市生まれ。株式会社コントレール取締役[1]

日本大学芸術学部映画学科卒業[2]。日本大学芸術学部映画学科特任教授、東京芸術大学大学院講師[3]

代表作は『アリーテ姫』、『マイマイ新子と千年の魔法』、『この世界の片隅に』など。目次

1 経歴

2 主な作品リスト

2.1 テレビアニメ

2.2 アニメ映画

2.3 OVA

2.4 ゲーム

2.5 実写映画

2.6 その他


3 著書・評論

4 脚注

5 外部リンク

経歴

1960年、大阪府枚方市で出生。母方の祖父は枚方で映画館を営んでおり、子どもの頃からアニメ映画などをよく観ていたという[4][5][6]。2歳7か月で、東映動画の『わんぱく王子の大蛇退治』を観たことを覚えており、特に名アニメーターの大塚康生月岡貞夫が作画したクライマックスシーンが印象に残っていたが、月岡貞夫には大学で学び、業界では先輩に大塚康生がいて、「自分の人生は、線路が敷かれた一本の電車道なのか」と不思議な縁を感じたという[7][8]

千葉県立船橋高等学校在学時から視聴覚委員長として日夜8ミリカメラで撮影していた。高校3年の後半からアニメーションを作り出す。卒業後、日本大学芸術学部映画学科映像コースにて、アニメーションを専攻する。この時期『未来少年コナン・愛蔵版』を手にし絵コンテと宮ア駿の存在を知る。アニメーションの授業は4年間に2コマ、2年で「アニメーションI」、3年で「アニメーションII」があるだけだったが担当講師が池田宏月岡貞夫だった。月岡からは1年間を費やして東映動画時代の話を聞き、アニメーションの作り方は日本アニメーションまでときどき出向いては絵コンテを売ってもらいそれで勉強していた[9]

1980年10月、池田ゼミで『新ルパン三世』最終回を題材とした授業がおこなわれており、その関連で開催された特別講義で宮ア駿と初対面する。授業の中身は、「津和野は旅行案内の写真に紹介されたとおりの風景ではない。写真とは適宜フレームで切り取ったものだ」というような話だった。その後、ゼミの2、3年生だけでゼミ室に宮崎を招いて延長戦もおこなった。今度は「スター・ウォーズの主人公側の戦闘機が尖っているのは、フロイト的な理由があって……」という話だった。学生生活は安達瑶と映画を撮ったりしていた。在学中より片山雅博はらひろし。角銅博之飯田馬之介ふくやまけいこ山村浩二らと共にアニメーション自主制作サークル「グループえびせん」に参加。

1981年9月、池田から電話で宮ア駿の新作のシナリオライターのテストの受けないかと誘われる。シナリオを書いたことがなかったが、脚本コースの学生4、5人に便乗して高円寺テレコム・アニメーションフィルムを訪れ、『名探偵ホームズ』の話を考えるという課題を受け、後日『青いルビー』として採用。採用には丹内司の推薦もあったという[10]。他にも翼手竜型飛行機のスケッチも描き、それがそのままイメージボード、ストーリーボードのスクラップブックに貼り込まれ、あとでアニメージュ文庫の『青い紅玉』の裏表紙に使われた。さらに2本目の『海底の財宝』の脚本も書く。3年の冬休みから演出助手・脚本としてテレコムに通うようになる[11]。『青い紅玉』の撮出しもおこなう。1982年の初夏には宮アたちと屋久島へ旅行に行く。「ソベリン金貨の行方」では原画も担当する[12]。1982年の中頃、『名探偵ホームズ』が消滅してしまったときはまだ大学4年生だったが、『ホームズ』の仕事がなくなってもそのままテレコムのスタジオ内に居続けていた[13]。学生だった間には東京アニメーション同好会(アニドウ)のイベントの手伝いもいろいろとやった。

テレコムによるアニメーション映画『リトル・ニモ』(NEMO)の制作過程では、高畑勲監督版の演出助手、近藤喜文友永和秀共同監督版の演出補佐、大塚康生監督版の共同監督(ストーリーとレイアウトを担当予定だった)を務める。

1983年4月に正社員になる。宮アに『風の谷のナウシカ』の脚本に誘われるもこれを断る[14]

1989年、『魔女の宅急便』では当初監督として準備班を指揮した後、宮崎の現場復帰に伴い演出補に退いた。虫プロダクションで劇場用アニメ映画『うしろの正面だあれ』の画面構成を務めた後、『魔女の宅急便』の参加スタッフで結成されたSTUDIO 4℃の設立に参画。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef