片桐貞昌
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 凡例片桐貞昌
片桐貞昌像
時代江戸時代前期
生誕慶長10年(1605年
死没延宝元年11月20日1673年12月27日
改名鶴千代(幼名)、貞俊(初名)→貞昌
別名石州(通称)、宗関、能改庵、浮瓢軒(号)
官位従五位下、石見
幕府江戸幕府
主君徳川家光家綱
大和小泉藩
氏族片桐氏
父母父:片桐貞隆、母:今井宗薫の娘
兄弟貞昌、貞晴一色範風一色範視室、
片桐元養女、本多忠純正室
妻正室:大久保忠常の娘
下條信隆信明貞房、松田貞尚(四男)
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片桐 貞昌(かたぎり さだまさ、慶長10年(1605年) - 延宝元年11月20日1673年12月27日))は、江戸時代前期の大名茶人大和小泉藩の第2代藩主。茶道石州流の祖として片桐石州(かたぎり せきしゅう)の名で知られる。目次

1 生涯

2 茶人としての石州

3 石州の茶会

4 参考文献

生涯

慶長10年(1605年)、初代藩主・片桐貞隆の長男として摂津茨木で生まれる。賤ヶ岳の七本槍の一人である片桐且元の甥にあたる。慶長19年(1614年)、片桐且元の人質として板倉勝重に預けられる。元和3年(1617年)、将軍秀忠に拝謁、片桐家の嫡子として認められる。寛永元年12月28日(1624年)に従五位下、石見守に叙任される。以後この官名により、片桐石州と呼ばれるようになる。寛永4年(1627年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の貞晴に3000石を分与したため、小泉藩は1万3000石となった。

貞昌は寛永10年(1633年)から寛永18年(1641年)まで知恩院再建の普請奉行を務めた。知恩院の普請を終えるまでの間、綾小路柳馬場に居を構えて金森宗和小堀遠州松花堂昭乗らと交友した。また、大徳寺の玉室和尚、玉舟和尚に参禅し、寛永15年(1638年)には玉室和尚より三叔宗関の道号を受け、大徳寺山内に高林庵を建立している。

知恩院の再建後は関東郡奉行などを歴任し、水害地の視察にしばしば出張するなど土木建築の分野で功績を挙げた。(正保2年(1645年)遠州辺・関東の堤防巡視、正保4年(1647年)相州馬入川の渡口修復巡視、慶安3年(1650年)伊勢・美濃の水害地視察、承応2年(1653年)富士川・天竜川の堤防破損巡視など)寛文8年(1668年)正月に遺言状を記し、同年のうちに幕府へ郡奉行の返上を願い出て許された。

延宝元年(1673年)11月20日に死去した。享年69。跡を三男の貞房が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺高林庵。
茶人としての石州 慈光院

最初、千利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙に茶道を学んだといわれている。石州が茶を始めた時期については定かではないが、少なくとも20歳前後と思われる。28歳の時、寛永9年(1632年)に師の宗仙は死去したが、その翌年より知恩院の普請奉行として滞京しており、ここでの交流が茶人としての成長に大きく寄与している。30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明近江小室藩主・小堀政一(遠州)らともよく茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠として次第にその名が広がっていった。

慶安元年(1648年)、将軍家光の意向により柳営御物(将軍家の名物茶道具)の分類・整理を行った。この功績により幕府内での評価が高まり、諸大名からも注目されるようになる。承応2年(1653年)頃、後西天皇の行幸にともない當麻寺中之坊に大円窓が特徴的な茶室「丸窓席」を創立、池泉回遊式庭園「香藕園(こうぐうえん)」を改修。

寛文3年(1663年)、父の菩提のために慈光院を創立した。これは寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という、茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま300年を越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見ても貴重な場所となっている。慈光院の庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室が国宝保存法により当時の国宝に指定された(1950年文化財保護法により重要文化財となる)。

万治元年(1658年)頃、堯然法親王の下問に対して『一畳半之事』を書く。寛文元年(1661年)、『侘びの文』を書く。


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