凡例片桐 且元
片桐且元像(模写、大徳寺玉林院所蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕弘治2年(1556年)
死没慶長20年5月28日(1615年6月24日)
改名片桐直盛(直倫)→且盛→且元
別名直盛、直倫、且盛、通称:助佐または助作
戒名顕孝院殿東市令三英元居士
墓所京都府京都市の大徳寺玉林院
静岡県静岡市の誓願寺
官位従五位下・東市正
幕府国奉行
主君浅井長政→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩大和竜田藩主
氏族片桐氏(豊臣贈姓)
父母父:片桐直貞
兄弟且元、貞隆
妻正室:片桐半右衛門
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。
豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降は家老として豊臣秀頼に仕え、秀頼の命で、滅失していた方広寺大仏(京の大仏)および大仏殿の再建にあたった。しかし同寺院に納める梵鐘の鐘銘をめぐり方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件[注釈 1])が生じ、大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。 天正12年(1584年)における小牧・長久手の戦いの6月5日付けの陣立書まで確認できるように、豊臣秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。翌天正13年(1585年)7月1日、従五位下・東市正に任じられた際より、直盛の使用が確認される[注釈 2]。且元の使用は、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの始まる前のころと考えられている[2]。この記事においては便宜上、名を且元に統一する。 弘治2年(1556年)、近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれた。母は不詳。信濃源氏の名族である片切氏は、伊那在郷の鎌倉御家人だったが、本流が片切郷に残る一方で、支流は承久年間以降に美濃国・近江に進出し、片桐に改姓した。戦国大名化した浅井氏に仕えるようになったのは直貞の代からという。須賀谷は浅井氏の本拠地・小谷城と山続きで、同城の支城の一つとして機能するほか、温泉が湧出するために湯治場としても利用されていた。 天正元年(1573年)9月1日、織田信長による浅井長政への攻撃で小谷城が陥落し、主君・浅井長政は自害した。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現存している[3]。このことから、18歳の且元も一貫して浅井方として戦い、そして幼きころの浅井三姉妹や大野治長兄弟らとともに、落城を経験したと考えられる[2]。且元が家督を継いだ時期は定かではない。 羽柴秀吉は、浅井氏に変わって長浜城主及び北近江3郡の領主となり、多くの人材を募っていた。且元は、天正2年(1574年)以降から天正7年(1579年)までの間に、同じく近江国生まれの石田正澄・三成兄弟と同じように若くして秀吉に仕官した。毛利輝元に対する中国攻めにも従軍していたと考えられる[2]。 天正11年(1583年)5月、信長死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らとともに活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に3千石を与えられた。 天正12年(1584年)6月、小牧・長久手の戦いに従軍する。陣立書から他の七本槍とともに馬廻衆として150人を率いて本陣を守っていたと考えられる。 天正14年(1586年)7月1日、従五位下・市正に任官され、この時に豊臣姓を下賜された[4]。同年、方広寺大仏殿(京の大仏)の建設で作事奉行を務めた(後年の再建工事でも且元が作事奉行を務める)。 以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっている[5]。また所領のあった摂津国をはじめ、秀吉の支配領域の拡大に伴い、丹波国[6]、大和国・伊予国など各地で、小堀正次・浅野長政・福島正則などとともに、検地奉行に携わるようになる。 天正15年(1587年)、九州征伐に従軍し、軍船の調達を担当する。 天正18年(1590年)、小田原征伐では[注釈 3]、脇坂安治や徳川家臣とともに小田原城の接収に立ち会い、早川長政とともに鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営手配と所領安堵及び検地を行った。奥州仕置では出羽国秋田での検地のほか、浅利事件の調査に関わり、当事者の上洛を差配し、長束正家らに裁定を委ねた[注釈 4]。 天正19年(1591年)、秀吉の三河国吉良での狩猟に随兵する。 秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では弟・貞隆とともに出征した。宮城豊盛とともに先発して街道の整備を行ったが、備前国より軍勢の延滞があったために、海路用の船の調達を指示されている[5]。手勢はわずか200であったが、釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの一揆衆のなで斬りや街道普請などの指令を取り次ぎ、2度の晋州城の戦いなどに参加した。 文禄2年(1593年)、講和に向けた休戦により、9月から10月に帰国した[9]。 文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担する。同年の文禄検地においては、摂津国、河内国北部の奉行となった。 文禄4年(1595年)、播磨国内などに5800石を加増され、本知の4200石とあわせて1万石となった[10]。
諱
生涯
出生
秀吉の直参衆片桐門
天正18年(1590年)に且元が薬師寺の普請奉行を務めた際、馬上のまま出入りしたという宿舎の正門。MOA美術館内に移築されている。