片岡鶴太郎
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かたおか つるたろう
片岡 鶴太郎
本名荻野 繁雄(おぎの しげお)
生年月日 (1954-12-21)
1954年12月21日(69歳)
出生地 日本東京都荒川区
身長163 cm[1]
血液型O型
職業俳優お笑い芸人画家
活動期間1973年 -
配偶者なし(離婚歴あり)
事務所太田プロダクション
公式サイト ⇒片岡鶴太郎 オフィシャル ウェブサイト
主な作品
テレビドラマ
男女7人夏物語
季節はずれの海岸物語』シリーズ
ララバイ刑事』シリーズ
太平記
家栽の人
終着駅シリーズ
八丁堀の七人』シリーズ
仮面ライダードライブ』映画
異人たちとの夏』バラエティー番組
オレたちひょうきん族
夕やけニャンニャン
森田一義アワー 笑っていいとも!
鶴ちゃんのプッツン5

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
1989年異人たちとの夏』『妖女の時代
ブルーリボン賞
助演男優賞
1989年異人たちとの夏
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
助演男優賞
1989年異人たちとの夏毎日映画コンクール
スポニチグランプリ新人賞
1989年『異人たちとの夏』報知映画賞
助演男優賞
1988年『異人たちとの夏』ヨコハマ映画祭
助演男優賞
1989年『異人たちとの夏』TAMA映画祭
最優秀作品賞
2012年この空の花 長岡花火物語
2020年海辺の映画館―キネマの玉手箱

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片岡 鶴太郎
本名荻野繁雄(おぎの しげお)
ニックネーム鶴ちゃん
生年月日 (1954-12-21) 1954年12月21日(69歳)
出身地 日本東京都荒川区
言語日本語
方言東京弁
最終学歴東京都立竹台高等学校卒業
師匠片岡鶴八隼ジュン
芸風声帯模写・漫談
事務所太田プロダクション
活動時期1973年 -
他の活動俳優
歌手
画家
配偶者独身(離婚歴あり)
親族荻野良乙(弟)
弟子春一番、片岡つるはし、江戸一など
公式サイト ⇒片岡鶴太郎 オフィシャル ウェブサイト
受賞歴
新語・流行語大賞流行語部門・大衆賞
第15回日本放送演芸大賞奨励賞
第4回花王名人大賞新人賞
第5回・第6回花王名人大賞名人賞
第10回手島右卿賞(書道)
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片岡 鶴太郎(かたおか つるたろう、1954年昭和29年〉12月21日[2] - )は、日本俳優お笑いタレント画家書家ヨガ実践家。かつてはプロボクサー活動もしていた。

本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクション所属。

弟は太田プロダクション社員(バラエティマネージメント1部長)の荻野良乙(よしお)。次男は画家の荻野綱久。三男は日本料理人の荻野聡士[3]

東京都荒川区西日暮里出身[4]東京都立竹台高等学校卒業。
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "片岡鶴太郎" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2008年7月)

生い立ち

実家の荻野家は埼玉県所沢市の農家であり[5]、父方の祖父は神田で果物屋を営んでいた[4]。鶴太郎の父・忠雄(1926年 - 2022年)は長男だったため、祖母は弟だけを引き取り、父は所沢の本家に置いて行かれた[5]。母方の祖父は羽子板職人だったが、太平洋戦争空襲で家と職業道具全てを失い廃業し[5]、戦後はお好み焼きを売るようになった[4]。鶴太郎の父は復員後、成増の金属加工工場に就職し、工場の寮で鶴太郎の母・繁子(1930年 - )と出会った[4][5]。結婚後は西日暮里の妻の家族の近所で暮らし始め[5]、1954年に鶴太郎が誕生した[4]

鶴太郎は父に連れられて、寄席や演芸場へ通っていた[4]。物心づいたころから芸人を志し[4]、10歳の時に動物の物真似でフジテレビの素人参加番組『しろうと寄席』にテレビ出演しているが、番組のADが後に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のプロデューサーとなる横澤彪だった。その父が死去したことが2022年3月23日の鶴太郎のインスタグラムで公表されている[6]

高校進学に際しては、中学3年時の初めには成績が下から2、3番だったことから、担任から「志望校は無理」、母親からは「貧しいから私立は無理」と言われたことで発奮して、夏休みの1か月間で小学校6年生の教科書からやり直して猛勉強した結果上位10番に入り、東京都立竹台高等学校に進学。この「やればできる」という体験は片岡の人生の励みになったという[7]。高校では演劇部に所属し、3年次には部長を務めた[8]
デビュー

高校卒業後、俳優を目指して清川虹子の自宅へ何のあても無く唐突に訪問し、弟子入りを志願したが(最初は渥美清に弟子入りを考えていたが、もし弟子になれたとしても尊敬と憧れから何も出来ないだろうと思い諦めた)清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、終いには「警察を呼ぶぞ」と警告されて断念した。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活のためしばらく土木作業員などの仕事を経験した後、1973年声帯模写片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる[9][10]

師匠の鶴八は「声帯は人によって違うから、君に僕の芸はそのまま教えられない」と、芸を教えてくれなかった。しかし、そば屋へ同行した際には、そばの食べ方の手ほどきを受け「芸人として売れるまで、そば屋では盛りそばしか食べてはいけない」など、芸人としての「粋」を教えてもらったと語る。鶴八は、盛りそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「君も早く売れる芸人になりなさい」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は師匠の懐の深さを知り「いつかは師匠と一緒に天丼を食べたい!」と決意するが、売れ出したころには鶴八は既に亡くなっており、その願いは叶うことがなかった。

1976年ごろに大阪で隼ジュン(後の隼ブラザーズ)の元で修行を行い、丘鶴太郎(デビュー当初は「片」がない)の芸名(後に「華の鶴太郎」)でトランポリンの地方興行を行う。興行では売れ始め鶴太郎本人も手応を感じピン芸人としてテレビに移行したい考えはあったが、隼率いるコント集団としては興行が順調で3年先まで興行スケジュールが埋まっており、鶴太郎も集団の宣材写真の中心に居たため鶴太郎の退団は承認できなかった。2年ほど在籍したが、このままで終わってしまうことに不安を感じ、九州興行の際に無断で一座から逐電した[11]。そのことが原因で干され、知人の紹介で松山道後温泉で劇団に所属して、司会やものまねの仕事に就き修行を重ねる[9][10][12]。温泉旅館での宿泊客の老人には持ち芸である小森和子の真似はウケなかったが、鶴太郎の才能を理解し、身の回りの世話をしてくれていた座長の娘[11]と半年後に上京、結婚した[13][信頼性要検証]。妻との間には3人の息子をもうけたが[14][信頼性要検証]、テレビ番組では30歳のころから別居状態であると明かしており[15]2017年3月に離婚している[16][17]。一部週刊誌は離婚の原因を若いころからの浮気癖としているが[18]、本人はヨガに熱中してストイックな生活に没頭したため妻とのすれ違いが生じたと真相を語っている[19]
全国区の人気

24歳の時、実質的なテレビデビューとなるフジテレビ系『お笑い大集合』に出演し、ここで横澤彪と再会した。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出するが漫才ブームには乗れず[9]。その後はお笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦ものまねにより一躍脚光を浴び、九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子たこ八郎などの真似で人気を博した。

当時は小太りの体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す[20]など、被虐的なキャラクターだった(リアクション芸人)。

現在、かつての芸風は影を潜めているが『オールナイトフジ』では、おまるの中にかりんとうを入れて示すなどの下ネタを披露していた。また、同番組内の“鶴太郎劇団”という寸劇コーナーにおいても、頻繁に女装しては男装した共演の女子大生と絡みのシーンを演じる、劇の最後のオチで全裸を女子大生に見せ付けるといった下品なキャラクターであった。


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