片岡高房
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 凡例片岡 高房
『義士四十七図 片岡源五右衛門高房』
尾形月耕 画)
時代江戸時代前期
生誕寛文7年(1667年
死没元禄16年2月4日1703年3月20日
別名新六 → 源五右衛門(通称
吉岡 勝兵衛(変名
戒名刃勘要剣信士
墓所高輪泉岳寺
幕府江戸幕府
主君浅野長矩
赤穂藩
氏族宇多源氏近江源氏
父母実父:熊井重次郎
養父:片岡六左衛門
兄弟高房、次常、重康、重長、 2人。
妻八島惣左衛門の娘
子新六、六之助、るい子(津金善次郎 室)、片岡中右衛門 室
特記
事項赤穂浪士四十七士の一人。
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片岡家の家紋。
瓜の内に釘抜(うり の うち に くぎぬき)

片岡 高房(かたおか たかふさ 寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野長矩から最大の寵愛を受けた。

通称は、はじめ新六(しんろく)、のちに源五右衛門(げんごえもん)と称した。

本姓近江源氏家紋は瓜の内釘貫。変名は、吉岡勝兵衛。



生涯

寛文7年(1667年)、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次(知行300石御蔵米120石)の長男として名古屋に生まれる。生母が側室であったため、寛文10年(1670年)に正室の子である熊井次常が生まれると、嫡男たる地位を奪われた。高房はながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされたといわれる。なお他にも熊井重康、熊井重長など2人、2人がいる。

延宝2年(1674年)、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門(知行100石)に養子に入った。父・熊井重次の弟・長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいたという関係にあったためである。

延宝3年(1675年)、養父・六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石家督を相続。この年のうちから小姓として浅野長矩の側近くに仕えている。長矩とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。また長矩からの信任が深かったため、長矩とは男色の関係にあったともいわれた。

そのため、しばしば家禄の加増を受けており、貞享3年(1686年)4月9日と元禄4年(1691年)1月12日にそれぞれ100石の加増があった。なお、この際のいずれも「片岡新六」名義になっており、これ以降の段階で源五右衛門に改名したとみられる。またこの頃には浅野家臣・八嶋惣左衛門のに迎え、元禄5年(1692年)に長男新六、元禄8年(1695年)に次男六之助、元禄10年(1697年)に長女るい子(津金善次郎室)、元禄12年(1699年)、次女の片岡中右衛門室を儲けた。元禄12年(1699年)1月12日にはさらに50石加増され、都合350石を知行した。これは赤穂浪士の中では1500石の大石良雄に次いで家禄が高かった。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ際には城内に供待ちをしていた。長矩は陸奥国一関藩田村建顕屋敷にお預けとなり、即日切腹と決まった。田村家の資料である『内匠頭お預かり一件』によると、浅野長矩は高房と礒貝正久に宛てて「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を田村家臣の口述筆記で残したことが記されている(ただし、文章がしり切れてしまっており不自然な内容であるため、この後に続く文は江戸幕府を憚って田村家で消された可能性が高い)。

長矩の切腹後、片岡らは礒貝正久や田中貞四郎ら長矩の側用人たちと一緒に遺体受け取りに田村邸に出向いた。介錯に失敗し、二度斬りされた首と胴体を確認した(二度斬りにより、血が大量に周囲に飛び散りかかったという[1])。高房は長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って吉良義央への仇討ちを誓った。

吉良への仇討ちの同志を募るため、高房は赤穂へ赴いたが、このとき赤穂藩では殉死切腹が藩士達の主流意見であったため、仇討ちの同志は集まらなかった。赤穂で同志を募ることを諦めた高房らは、大石良雄の義盟にも加わらず、開城後に江戸に戻っていった。しかし、堀部武庸ら江戸急進派ともうまくいかず、礒貝ら長矩側近たちと一緒に独自のグループをつくって、吉良義央の首を狙った。結局、元禄15年(1702年)3月、江戸急進派鎮撫のために江戸に下ってきた吉田兼亮から説得を受けたのを機に、ようやく大石の義盟に加わる決意をした。その後、吉岡勝兵衛と称して江戸南八丁堀湊町に借家。閏8月には尾張の父や兄(本当は弟だが)達に連座しないように義絶状を送っている。

12月15日未明の吉良屋敷討ち入りにおいては、高房は表門隊に属して屋内において十文字槍で戦った。2時間あまりの激闘の末に、武林隆重が吉良義央を斬殺し、間光興が首を取り本懐を果たした。赤穂浪士一党は泉岳寺へ引き上げ、義央の首級を浅野長矩の墓前に供えて仇討ちを報告している。愛知県名古屋市千種区の片岡源五右衛門墓。中区新栄乾徳寺より移転した(遺体の埋葬を伴わない供養塔である)。

討ち入り後に、高房は大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の中屋敷に預けられた。実父・熊井重次と異母弟・次常(正室の子)は絶縁した。世話役の堀内伝右衛門から軽視されたせいか、大石や他義士のような逸話や辞世の句や歌が記録されていない。

元禄16年(1703年)2月4日、幕命により、切腹。介錯人は細川家家臣の二宮久重。


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