片岡千惠藏
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かたおか ちえぞう
片岡 千恵蔵
1955年撮影
本名植木 正義(うえき まさよし)
別名義片岡 十八郎
片岡 千栄蔵
植木 進
生年月日 (1903-03-30) 1903年3月30日
没年月日 (1983-03-31) 1983年3月31日(80歳没)
出生地 日本群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市
死没地 日本東京都港区
職業俳優
ジャンル歌舞伎映画テレビドラマ
活動期間1912年 - 1983年
活動内容1912年:片岡少年劇に入団
1924年:映画デビュー
1928年片岡千恵蔵プロダクション設立
1937年日活に入社
1942年大映に移籍
1949年東横映画に入社
1951年東映に移籍
配偶者あり
著名な家族長男:植木基晴(元子役)
長女:植木千恵(元子役)
三男:植木義晴日本航空会長)
主な作品
國士無双
赤西蠣太
鴛鴦歌合戦
多羅尾伴内』シリーズ
金田一耕助』シリーズ
いれずみ判官』シリーズ
血槍富士
大菩薩峠
十三人の刺客

 受賞
ブルーリボン賞
大衆賞
1955年血槍富士
その他の賞
牧野省三
1958年

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片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年明治36年)3月30日 - 1983年昭和58年)3月31日)は、日本俳優。本名?植木 正義(うえき まさよし)。

戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎大河内傳次郎嵐寛寿郎市川右太衛門長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[1](これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎など[2]

長男の植木基晴(「千恵蔵二世」と呼ばれた)、娘の植木千恵は子役で、東映時代の千恵蔵と共演したが、その後引退。三男の植木義晴日本航空の元操縦士で、同社の専務執行役員を経て、代表取締役社長に就任した[3]。四男国晴ともに一般人。
来歴
歌舞伎界へ

1903年(明治36年)3月30日群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市)に生まれる。幼い頃に母親を亡くし、東京市水道局に勤務していた父の住む麻布区箪笥町に移り住む[4]。やがて麻布小学校に入学するが、芝居好きの父親の影響で芝居に熱中していた。

1912年(明治45年)、9歳で十一代目片岡仁左衛門主宰の片岡少年劇に入門。片岡十八郎を芸名に、真砂座の『忠臣蔵』で初舞台を踏む[4]。やがて仕出しから座頭に進み、『菅原伝授手習鑑 車曳き』の松王丸を師匠譲りの当たり芸とした。少年劇解散後は仁左衛門の直門となって片岡千栄蔵を名乗り[4]1923年(大正12年)2月に明治座七代目市川中車と市川千代之助の口上で名題に昇進した[4]。屋号は「松島屋[5]」で、『伊賀越道中記』の香田大内記、『紙子仕立両面鑑』のおさん、『関白秀次』の不破伴作などを当たり役とし、師匠にも可愛がられる存在となっていた[4]。しかし、門閥制度に強い不満と不安を感じていた。
映画界へ

同年、懇意にしていた子爵の紹介で小笠原プロダクション製作の『三色すみれ』に植木進の名で出演、これが映画初出演作となった。このあと松居松葉から映画界入りを勧められ、松竹蒲田撮影所への入社が内定していたが、撮影所長の野村芳亭下加茂撮影所に移ったため、沙汰止みとなり、再び師匠の下で舞台を続けていた[4]。しかし、歌舞伎界の因習を嫌悪する気持ちはいっそう強まり、市川小太夫の誘いで畑中蓼坡の新劇協会に出入りするも、新劇の舞台に立つ機会も得られず悶々としていた。

1927年(昭和2年)、連合映画芸術家協会を設立していた直木三十五の紹介で、牧野省三マキノ・プロダクション御室撮影所に入社。嵐寛寿郎より一日早い入社だった。これ以降片岡千恵蔵を名乗り、同社出演第1作の『万花地獄』で初主演した。その後はマキノの美剣士スターとして剣戟映画に出演したが、本人は「チャンバラはあまり得意でなかった」と告白している[4]

1928年(昭和3年)2月、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』で監督の牧野が、以前の約束を破って浅野内匠頭役に諸口十九を起用したことで、牧野と衝突。服部一郎右衛門の役を当てられたが、これに不満を持った千恵蔵はマキノ脱退を決意した[6]。(後年、マキノ正博池田富保監督『忠臣蔵 天の巻・地の巻』(1938年)では内匠頭を演じ評価を得ている。)
千恵プロの創設國士無双』(1932年)右は山田五十鈴

同年5月2日、マキノを退社し[7]5月10日片岡千恵蔵プロダクション(略称:千恵プロ)を創立。伊藤大輔の推薦で、伊丹万作稲垣浩監督が設立に参加し、第1回作品の『天下太平記』以降多くの時代劇を連発する。翌1929年(昭和4年)1月15日京都嵯峨野に千恵プロ撮影所を完成。5月21日日活と提携した[8][9]

千恵プロでは伊丹・稲垣両監督を中心に、チャンバラに頼らず、主人公の人間ドラマを主とした明朗快活な作風の時代劇が多く作られた。言葉も現代語で、斬新な手法を使い、これらの作品は髷をつけた現代劇と呼ばれて日本映画界に新風を巻き起こした。稲垣監督の『放浪三昧』『鴛鴦旅日記』『一本刀土俵入』『弥太郎笠』、伊丹監督の『仇討流転』『國士無双』『武道大鑑』『赤西蠣太』、マキノ正博監督の『白夜の饗宴』、伊藤大輔監督の『堀田隼人』、山中貞雄監督の『風流活人剱』など、数々の名作・佳作を送り出し、うち17本の作品がキネマ旬報ベストテンにランクインされた。

1937年(昭和12年)4月、『松五郎乱れ星』を最後に千恵プロを解散し、全従業員と共に日活京都撮影所に入社する。同社ではマキノ正博監督のオペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』などの佳作に主演し、1940年(昭和15年)からは吉川英治の大作を映画化した『宮本武蔵』シリーズで武蔵を演じた。
大映・東横映画時代千石纏』(1950年)公開当時のスチル写真。右が千恵蔵、左は市川右太衛門

1942年(昭和17年)、日活が戦時統合により大映となり、千恵蔵はそのまま大映所属となった。当時、大映所属の阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門とともに「時代劇四大スタア」と呼ばれ[5]、同社第1作の『維新の曲』やその2年後の『かくて神風は吹く』で共演した。

戦後はGHQ占領政策によりチャンバラ映画の製作が禁止されたため、現代劇に活躍の場を移す。1946年(昭和21年)、松田定次監督の『七つの顔』で七つの顔の男・藤村大造を演じ、彼の当たり役となりシリーズ化された。興業的にも大成功し、荒唐無稽なエンターテインメント作品として人気を得た。

1947年(昭和22年)、マキノ光雄に頼まれて東横映画の作品に出演。『三本指の男』『にっぽんGメン』がそれにあたるが、前者では金田一耕助を演じ、藤村大造と並ぶ当たり役として、東横時代に4本・東映時代に3本が作られた。後者は囮捜査官の活躍を描いたギャング・アクションの第1作で、東横で計3作のシリーズが製作された。

1948年(昭和23年)10月、大映京都撮影所で大映系映画館主大会が開かれ、社長の永田雅一は挨拶で「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言及[10]。この発言に千恵蔵が激怒し、「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」と言明し永田と千恵蔵の関係は決裂。これを機に比佐芳武らとともに東横映画への移籍を決意した。

同年に大映を退社。翌1949年(昭和24年)に東横映画へ移籍した。
東映へ1953年

1951年(昭和26年)、東横映画は太泉映画東京映画配給株式会社に吸収合併され、東映株式会社に商号変更。千恵蔵は東映京都撮影所市川右太衛門とともに重役スターとして活躍を始める。当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」と呼ばれた(一方の右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれた)。

右太衛門とともに東映時代劇の重鎮として活躍し、東映時代だけでも130本ほどの作品に出演している。遠山金四郎を演じた『いれずみ判官』シリーズは15作(東横時代の作品を含めると計18作)製作され、戦後の十八番シリーズとなった。また、新春オールスター映画の『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』で清水次郎長内田吐夢監督の『大菩薩峠』で机竜之助忠臣蔵もので4度大石内蔵助を演じ、それぞれ当たり役としている。1953年(昭和28年)には藤村大造シリーズが『片目の魔王』で多羅尾伴内シリーズとして復活し、東映で9作・通算で13本製作された。一方、内田監督の『血槍富士』『浪花の恋の物語』などでは多年のキャリアを生かして演技にも円熟味を加えている[4]

1960年代頃からは若手スターの中村錦之助大川橋蔵らに主役の座を譲って、脇役を演じることが多くなったが、東映時代劇の衰退で集団抗争時代劇として製作された『十三人の刺客』では主演し、路線転向後の任侠映画でも脇役を演じ、千葉真一主演のオールスター映画『日本暗殺秘録』では井上日召を演じた。


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