片岡保幸
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片岡 易之/片岡 治大(片岡 保幸)現役時代、西武在籍当時
(2012年5月28日、阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県千葉市花見川区
生年月日 (1983-02-17) 1983年2月17日(41歳)
身長
体重176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手遊撃手三塁手[1]
プロ入り2004年 ドラフト3巡目
初出場2005年3月26日
最終出場2016年9月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


宇都宮学園高等学校

東京ガス

西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
(2005 - 2013)

読売ジャイアンツ (2014 - 2017)

コーチ歴


読売ジャイアンツ (2018 - 2021)

国際大会
代表チーム 日本
WBC2009年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2009野球

片岡 保幸(かたおか やすゆき、1983年2月17日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球指導者野球解説者。右投右打。

プロ入り初年度の2005年から2012年までの登録名は片岡 易之[注 1]2013年から2021年までの登録名は片岡 治大(以上、いずれも読み同じ)[3][4]で、2022年より活動名義を本名に戻している。愛称は「ヤス」[5][6]。マネジメント事務所は吉本興業[7]

兄は元社会人野球選手で日本大学硬式野球部監督の片岡昭吾。妻はタレントのベッキー[8]
経歴
プロ入り前

3人兄弟の末っ子。小学校時代は作新ヤンキースの4番打者兼投手として活躍。中学時代は千葉北シニアリーグに所属し、2年からレギュラーで活躍。3年時には1番、三塁手で主将としてチームを全国大会に導くが、怪我に苦しんだ時期が長かった。中学校卒業後、栃木県の宇都宮学園高校(現:文星芸術大学附属高等学校)に進学。2人の兄はそれぞれ同校で活躍し有名であり、片岡が入学後「片岡3兄弟」として名を馳せる。高校3年時に3番・遊撃手として自らのサヨナラヒットで夏の甲子園へ出場するが、甲子園では2回戦敗退(2回戦は腰痛で欠場)。

2001年に東京ガスへ入社し、同社の社会人野球チーム・東京ガス硬式野球部に入部。怪我が多かったため、登録名を「片岡 易之」とした。同期入社には内海哲也がいる。

第75回都市対抗野球大会には補強選手で出場[9]

2004年秋のプロ野球ドラフト会議西武ライオンズから3巡目の指名を受け入団。石毛宏典ダリン・ジャクソン松井稼頭央らが着用していた背番号7を与えられた。
西武時代2010年、西武ドームにて(太平洋時代のユニフォームを着用)

初年度となった2005年5月1日に9番・二塁手で初スタメン出場。一軍に定着して二塁手または遊撃手として81試合に出場。打率.263、4本塁打、6盗塁の結果を残した。オフには盗塁数増加のため色々なトレーニングを試み、盗塁成功には致命的な足の遅さを技術で補おうと陸上競技をトレーニングに取り入れた結果、のちの盗塁数増加につながったという[10]

2006年5月末に高木浩之から二塁手のレギュラーを奪うと、打率.292を記録して2番・二塁手の座を確保。中島裕之の故障で8月から9月上旬まで一時的に遊撃手に回った。8月2日、3日の千葉ロッテマリーンズ戦では1試合3盗塁を2試合連続で決めるなど、福地寿樹とのコンビで2人合わせて53個の盗塁を決めた他、115試合の出場でリーグ2位の33犠打を記録した。

2007年は2番・二塁手で初の開幕スタメンをつかんだが、4月18日の日本ハム戦で右翼手G.G.佐藤と接触して右ひざと胸部を打撲し途中退場。翌日の試合では怪我を押して代打出場し安打を放ったものの、状態が悪く登録を抹消された。5月30日に復帰したが、しばらくは負傷の影響で2割台前半の低打率にあえいだ。8月に月間打率.353(13盗塁)を記録して打率を急上昇させたが、最終的に116試合に出場して打率.256に終わった。一方で38盗塁を記録し、自身初の盗塁王のタイトルを獲得した。守備でも失策が前年の13個から5個と減少し、規定試合数に出場した二塁手としてリーグトップの守備率.993を記録[11]。犠打も前年より増やし、リーグ2位の35個を記録した。

2008年は開幕から1番打者を任される。プロ入り後最も多い139試合に出場し、打っては2番打者の栗山巧とともに167安打で最多安打のタイトルを獲得し、リーグトップの得点圏打率.382と勝負強さも発揮。走っては前半戦だけで前年の盗塁数を上回ると最終的に50盗塁を記録し、2位の渡辺直人を16個引き離して2年連続の盗塁王となった(パ・リーグの50盗塁以上は1997年の松井稼頭央小坂誠以来)。また、選手間投票でオールスターゲームに初出場し、自身初のベストナインにも選ばれた。2014年に移籍することになる読売ジャイアンツとの日本シリーズでは7試合全てで安打を放ち、5盗塁を記録。第7戦では1点を追う8回に死球で出塁すると、盗塁と送りバントで三塁に進み、続く中島の打席でギャンブルスタートのサインに応え三塁ゴロの間に同点のホームを陥れ、逆転日本一の足がかりを作る活躍を見せた[12]アジアシリーズ初戦のSKワイバーンズ戦は風邪のため欠場したが、決勝までの3試合に1番・遊撃手として出場し、シリーズ制覇に貢献した。

2009年は開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。日本代表監督の原辰徳は「足(走塁)で代表に選んだ」と語り、片岡を「JOKER」と例えた[10]。また、イチローも「ファミスタの『ピノ』みたい」と評し、一次候補選手の中では中島裕之岸孝之に並ぶキーマンに挙げた[13]。第一ラウンドこそ出番はなかったが、第二ラウンド初戦のキューバ戦から主に先発が左投手時にスタメン出場。決勝韓国戦では、同点の7回表、先頭打者としてレフト前ヒットで出塁すると続くイチローの打席では1ボールからの2球目で盗塁に成功。さらにイチローのバントヒット、中島裕之のレフト前ヒットと続き、片岡が貴重な勝ち越しのホームを踏んだ。大会通じて打率.308、盗塁は1位タイの4盗塁を挙げ、慣れない三塁手の守備も手堅くこなし、日本の2大会連続2度目の優勝に貢献した。

シーズンでは前年同様1番・二塁手として起用されたが打撃不振に陥り、4打数以上無安打の試合は29回とリーグ最多を記録[要出典]。出塁率も低迷した。前半戦は打率.282で折り返したが、最終的には前年と同じ139試合に出場しながら打率.260と復調しないままシーズンを終了した。一方で13本塁打・58打点は自己最高と長打率は上がり二塁手部門でパ・リーグトップの守備率を記録したが、時折緩慢なプレーでピンチを招くこともあった。盗塁数では9月まで本多雄一川ア宗則にリードを許していたが、9月20日から6試合で10盗塁を記録し、自己最多の51盗塁を記録、3年連続となる盗塁王のタイトルを獲得した。オフの契約更改では2度目の交渉でも合意できず越年[14][15]

2010年は開幕当初こそ調子があがらなかったが、オールスターゲームに2年ぶりに選出され、第2戦では5打数4安打でMVPを獲得し、8月24日のロッテ戦でパ・リーグでは福本豊以来となる3年連続50盗塁を達成した[16]。137試合の出場で自己最高の打率.295、出塁率.347、59盗塁とリードオフマンとしてチームを牽引し、4年連続で盗塁王に輝いた(本多雄一と同時受賞)。一方、5月にアキレス腱、6月に左肩と相次いで故障し、9月20日のソフトバンク戦では走塁中に右足ふくらはぎを痛めると、シーズン残りとクライマックスシリーズを欠場した。

2011年は春季キャンプで右足を捻挫して出遅れ、4月中旬に20打席連続無安打と打撃不振に陥った。「1番・二塁」として開幕から53試合連続のフルイニング出場を続けていたが、6月28日のオリックス戦の守備時[17]に左肩を痛めると同時に脳震盪を起こして途中交代[18]。7月5日のソフトバンク戦で一塁に帰塁する際に右肩を亜脱臼し、一軍登録抹消された[19]。9月3日に一軍復帰後は「9番・二塁」として出場を続けるが、6月に痛めた左肩の影響で10月5日に本人の申し出で登録抹消。同月13日に左肩脱臼修復のための手術を受けた[20]。度重なる怪我の影響もあり、86試合出場で打率.230、22盗塁にとどまり5年連続の盗塁王を逃した。

2012年は前年の手術の影響で開幕を二軍で迎えた。5月1日に一軍復帰、同月10日には復帰後初ホームランを放つ。しかし、7月10日のソフトバンク戦の守備時に右手首を痛め途中交代[21]。その後も回復しなかったため、9月16日に右手三角靱帯複合体損傷修復手術を受け[22]、シーズン残りを棒に振った。最終成績は52試合出場は自己ワースト。盗塁も8つにとどまった。同年12月30日、登録名を「片岡 治大」に変更することが発表された[3][4]

2013年は怪我からの復活を期すと同時にベテランとしてチームを牽引し[23]、「1番・二塁」として開幕スタメンに名を飾る。


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