片山 敏彦
(かたやま としひこ)
誕生日1898年11月5日
出生地高知県高知市帯屋町
死没年 (1961-10-11) 1961年10月11日(62歳没)
国籍 日本
芸術分野ドイツ文学、フランス文学
教育東京帝国大学独逸文学科
影響を受けた
芸術家ロマン・ロラン
影響を与えた
芸術家高田博厚
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片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。
ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の ⇒追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。1919年、高校卒業後、文学を志して上京。同人雑誌を刊行。1921年、東京帝国大学独逸文学科に入学。このころ高田博厚、高村光太郎、尾崎喜八らを知る。1923年、斎藤知子と同棲し、翌2月結婚。ロマン・ロランに心酔。 1924年、大学を卒業し、法政大学予科独逸語専任教授(1932年まで)。母没。高村、高橋元吉、高田、尾崎らと雑誌『大街道』を創刊し、また、ゲーテの『エッカーマンとの対話』の翻訳を、雑誌『不二』に載せた。1925年、ロランとの文通を始め、前記の仲間らと『ロマン・ロラン友の会』を作る。油絵を美術展に出品。井荻(現在は杉並区清水)に新居を構え、疎開を除き終生そこに住んだ。 1926年、スイスにおけるロラン生誕60年記念出版に独文を寄稿。倉田百三と交際。1928年、高村・高田・尾崎らと雑誌『東方』を始める。 1929年4月に出航し、同年6月から翌々年3月までヨーロッパに滞在した。パリでは、ヴィルドラック、デュアメルらと交わり、また、スイスに在住していたロマン・ロランを訪ねて知遇を得た。ドイツでは、シュテファン・ツヴァイクを訪ね、アルザスでシュヴァイツァーに会う。1931年、渡仏した高田博厚をロランに引き合わせる。 1932年6月、第一高等学校講師となり、ドイツ語を教える。1933年1月、妻を喪う。同年4月、法政大学文学部講師となる(1937年まで)。1935年3月、父没。菊地愛子と再婚。雑誌『世代』を発行(1941年まで)。 1938年2月、第一高等学校教授となったが1945年4月にその職を辞す。同年6月、群馬県北軽井沢に空襲を避け、栄養失調となる。戦後の10月に小諸市近在の塩名田へ疎開。
来歴