父親たちの星条旗
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父親たちの星条旗
Flags of Our Fathers
監督
クリント・イーストウッド
脚本ウィリアム・ブロイレス・Jr(英語版)
ポール・ハギス
原作ジェームズ・ブラッドリー
ロン・パワーズ
『硫黄島の星条旗』
製作クリント・イーストウッド
スティーヴン・スピルバーグ
ロバート・ロレンツ
出演者ライアン・フィリップ
ジェシー・ブラッドフォード
アダム・ビーチ
音楽クリント・イーストウッド
撮影トム・スターン
編集ジョエル・コックス
配給 パラマウント映画
ワーナー・ブラザース
公開 2006年10月21日
2006年10月28日
上映時間132分
製作国 アメリカ合衆国
言語英語
製作費$90,000,000[1]
興行収入 $65,900,249[1]
$33,602,376[1]
17.0億[2]
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『父親たちの星条旗』(ちちおやたちのせいじょうき、原題: Flags of Our Fathers)は、2006年公開のアメリカ合衆国の映画。ジェームズ・ブラッドリー(英語版)とロン・パワーズ(英語版)による同名のノンフィクション小説を元にした映画化である。『硫黄島2部作』の1作目。
概要

クリント・イーストウッドが監督し、ジェームズ・ブラッドリー(英語版)とロン・パワーズ(英語版)によるノンフィクション小説『Flags of Our Fathers』(邦題: 『硫黄島の星条旗』)[3]ポール・ハギスらが脚色し、イーストウッドが率いるマルパソ・カンパニー(英語版)、スティーヴン・スピルバーグが率いるドリームワークスらが制作した。第49回ブルーリボン賞第30回日本アカデミー賞で最優秀外国作品賞を受賞した。

太平洋戦争最大の戦闘とされる硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品である。硫黄島での死闘と戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる有名な写真「硫黄島の星条旗」(Raising the Flag on Iwojima)の被写体となった兵士たちのその後などが描かれる。2006年10月に開催された第19回東京国際映画祭でオープニング作品として上映されたのち、10月28日に全国公開された。同年12月に日本側の視点で描いた『硫黄島からの手紙』が日本とアメリカで連続公開された。

硫黄島のような黒い砂浜を再現し、大がかりな土木工事や大砲・銃火器の使用許可などの困難な条件を克服可能な場所であるアイスランドレイキャネスで、戦闘シーンが撮影された。

写真を撮影したジョー・ローゼンタールは映画が公開される2ヶ月前に死去した。

海軍の衛生兵[注釈 1]ジョン・“ドク”・ブラッドリー、米海兵隊アイラ・ヘイズ、伝令であったレイニー・ギャグノンの3人の米軍兵士が、英雄として戦債キャンペーンの広告塔に起用されつつ、回想を通して戦場での体験が描かれている。
ストーリー

ウィスコンシン州で葬儀屋を営む老人のジョン・“ドク”・ブラッドリーが長い人生に別れを告げようとしていた。ブラッドリー(ドク)は1945年に硫黄島で戦い、帰国後は葬儀屋を営み、地域に貢献する男である。

ある日、年老いたジョン・“ドク”・ブラッドリーは突然倒れて、「あいつはどこだ」とうわ言を口にする。そんな父を見て、息子のジェームズ・ブラッドリーは父を知るために戦友たちを訪ね始め、年老いたデイヴ・セベランス元大尉から話を聞いたりする。

ハワイのキャンプタラワで訓練を受けた後、第5海兵師団隷下の第28海兵連隊は硫黄島に侵攻するために出航。海軍は日本軍が布陣しているであろう地点に、三日間にわたり砲爆撃を加えていた。 マイク・ストランク軍曹が第二小隊の指揮を担当。前日は兵士をリラックスさせようとラジオからはジャズが流れるのだが、逆に兵士たちは不安を掻き立てられる。

翌日、1945年2月19日、硫黄島へのアメリカ海軍の砲撃が始まり、海兵隊はLCVPLVTで上陸。海岸は静かだったため、一等兵のラルフ・“イギー”・イグナトウスキー(英語版)は、防衛側が既に全滅したのではないかと考えていたが、海兵隊が前進すると塹壕で待ち伏せていた日本軍が発砲を始め、海軍の船にも重砲弾を浴びせる。戦場ではアメリカ軍にも多大な犠牲者が出る中、ドクは衛生兵として仲間の救助に当たる。やがて海岸堡は確保されたものの、アメリカ兵の死体で埋め尽くされる。

2日後、アメリカ海軍の摺鉢山への攻撃と共に、海兵隊は日本軍からの銃砲撃が降り注ぐ中を前進する。ドクはこの戦場で何人もの海兵隊員の命を救い、後に海軍十字章を授与されるほどの活躍をする。海兵隊は摺鉢山の確保に成功するも、地下には依然として日本軍が潜んでいた。

2月23日、ハンク・ハンセン(英語版)軍曹の小隊が摺鉢山の頂上に到着し米国旗を掲げ、海岸や艦船から喝采を受ける。海辺に上陸するときに米国旗が上がるのを目撃した海軍長官ジェームズ・フォレスタルが、あの旗を欲しいと要求。チャンドラー・ジョンソン大佐は、あの旗は我々第2大隊の物だと不満を爆発させながらも国旗の交代をデイヴ・セベランス大尉に指示し、大尉は伝令であったレイニー・ギャグノン(英語版)と第2小隊を国旗を交換するために向かわせる。そして従軍カメラマンであったジョー・ローゼンタールにより、マイク・ストランクジョン・“ドク”・ブラッドリーアイラ・ヘイズ、レイニー・ギャグノン、その他2人の海兵隊員(ハーロン・ブロックフランクリン・スースリー)の6名が、2番目の米国旗を掲げる場面が撮影された。

3月1日、第2小隊は塹壕で待ち伏せをしていた日本軍から機関銃による攻撃を受け、その戦闘中にマイク・ストランクは米海軍の砲弾に見舞われ、その傷が元で亡くなる。その日遅く、ハンク・ハンセンは胸を撃たれて戦死、ハーロン・ブロックも機関銃の射撃により戦死する。

それから二晩たった後、ドクが負傷した海兵隊員を助けている間に、イギーは日本軍に拉致されてトンネルに引きずり込まれ、ドクは数日後に拷問され虐殺されたイギーの死体を発見する。3月21日、フランクリンが機関銃によって射殺され、アイラの腕の中で死ぬ。これで8人だった分隊は、戦闘でドク、アイラ、レイニーの3人だけとなる。フランクリンの死から数日後、仲間の衛生兵を助けようとしたドクも砲撃によって負傷するが、ドクは生き残って野戦病院に送られる。3月26日、戦闘は終了し、米軍が硫黄島を占領する。

戦闘が終了し、ローゼンタールの写真が新聞の一面を飾ると、アメリカ国民の士気は爆発的に盛り上がり、第二次世界大戦を代表する有名な写真となる。ハーロンの母は写真を見て息子だと確信するのだが、やがて夫に息子が戦死した事実を責める。レイニーは写真に写っている6名を上司に聞かれ、彼自身とマイク、ドク、フランクリンを特定するが、この時にハーロンをハンクと誤認してしまう。アイラは自分の名前を伝えたら殺すと脅迫したが、それでもレイニーは6人目の男としてアイラを上司に報告する。

ドクとアイラとレイニーは、7回目の戦債キャンペーンの広告塔に起用され、ワシントンDCでの金星章の授賞式に到着するのだが、そこでドクはハンクの母が国旗を掲揚した6人の中の遺族として間違って呼ばれている事に気づく。3人は、そこで財務省のバド・ガーバーに、実は旗を掲げた者の名前が間違っている事を伝える。


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