中国地名の変遷
建置古代
使用状況北京市
周薊
春秋薊
戦国薊
秦薊県
広陽郡
前漢燕国
広陽郡
燕国
広陽郡
広陽国
後漢上谷郡
広陽郡
三国燕国
西晋燕国
東晋十六国燕郡
南北朝燕郡
隋幽州
?郡
唐幽州
范陽郡
幽州
五代幽州
北宋/遼幽都府
析津府
南京
燕京
南宋/金大興府
中都
元大都
大都路
明北平府
順天府
北京
清順天府
北京
中華民国京兆地方
北平特別市
北平市
現代北京市
燕国(えんこく)は、中国にかつて存在した行政区分のひとつで、前漢の時代に設置された。時代によって広陽国・広陽郡・燕郡と名称を変えた。現在の中華人民共和国北京市にあたる。 春秋戦国時代は燕の首都で薊(けい)と称された。紀元前222年、燕が秦によって滅ぼされるとその領土となり、上谷郡・漁陽郡・右北平郡・遼西郡・遼東郡が置かれる。 秦末の動乱で、各地の諸侯が次々と独立すると、趙王武臣の将軍であった韓広が独立して燕王となる。しかし、秦を滅ぼした楚の項羽によって韓広は遼東王に遷され、項羽に協力した燕の将軍の臧荼が燕王となった。 高祖劉邦が前漢を建てると、引き続き臧荼が燕王であったが、紀元前202年に反乱を起こしたため殺され、代わって高祖の幼馴染である盧綰が燕王に封ぜられた。しかし、高祖がこれら異姓の諸侯王たちを粛清し、自らの親族たちを諸侯王に立てる郡国制を施行したため、盧綰は廃され、高祖の八男である劉建
歴史
王莽が新を建てると、広陽国は広有郡と改名され、県名も薊県は伐戎県、方城県・広陽県・陰郷県は陰順県と改名された。
光武帝が後漢を建てると、広有郡は上谷郡に合併されたが、和帝の永元8年(96年)に広陽郡として復活し、薊・広陽・昌平・軍都・安次の5県を領した。幽州の州治は薊県に置かれた。
西晋の時代、広陽郡はふたたび燕国となり、薊・安次・昌平・軍都・広陽・?・安楽・泉州・雍奴・狐奴の10県を領した。八王の乱後、燕国は燕郡となった。この頃から燕郡・右北平郡・遼西郡には、鮮卑族の段部が割拠していたが、338年に後趙の石虎によって滅ぼされると、燕郡は後趙の領土となる。その後、後趙の後継争いに乗じて前燕の慕容儁が後趙に侵攻し、薊を奪って、そこを前燕の都とした。
北魏の時代、燕郡は薊・広陽・良郷・軍都・安城の5県を領した。
隋が郡制を廃すると、燕郡は廃止されて、幽州に編入されたが、これ以降、燕郡の名は見られなくなった。
歴代燕王・広陽王
秦末楚漢
韓広(前209年 - 前206年)
臧荼(前206年 - 前202年)
前漢燕王
臧荼(前206年 - 前202年)
盧綰(前202年 - 前195年)…劉邦の竹馬の友
劉建(霊王)(前195年 - 前180年)…劉邦の八男
呂通(前180年)…呂后の甥の呂台(中国語版)の庶長子
劉沢(敬王)(前180年 - 前178年)…劉邦の又従弟
劉嘉(康王)(前178年 - 前169年)…劉沢の子
劉定国(前169年 - 前127年)…劉嘉の子