燕王喜(えんおう き、生没年不詳)は、中国の戦国時代の燕の最後の君主(在位:紀元前254年 - 紀元前222年)。姓は姫または?[1]、諱は喜。燕王喜
父は先代の孝王。子に始皇帝の暗殺を謀ったことで有名な太子丹がいる。 孝王3年(前255年)、父の孝王が死去し、喜が即位した[2]。 燕王喜4年(前251年)、宰相の栗腹を趙に使者として送って友好を深めようとした[2]。しかし、この頃の趙は長平の戦いで秦の白起に大敗して40万の兵を失い、疲弊していた。帰国した栗腹の報告でそれを知った喜は、考えを改めて軍を趙に攻め込ませた。しかし、趙の名老将である廉頗に迎撃されて燕軍は大敗し、逆に国都の薊を包囲されて和睦せざるを得なくなる。その後、秦の圧力を受けて趙が押されると、再度攻め入るが敗れた。 喜は秦と友好関係を結んでおり、友好の証として太子丹を人質として差し出していた。丹は趙で秦王政(のちの始皇帝)が人質の境遇にあった際、共に人質として交友関係があったが、秦で秦王政に冷遇されたのを恨んで燕に逃亡した。 燕王喜28年(前227年)、丹は荊軻を刺客として秦王政の暗殺に送るが失敗し、激怒した秦王政は秦軍を燕に攻め込ませた[3][4]。燕は代とともに抗戦するが、燕・代連合軍は易水の西で秦軍に敗れた[4]。 燕王喜29年(前226年)、都の薊が秦より陥落し、遼東に逃亡した[2][3][4]。秦が執拗に燕を追討したため、喜は代王嘉の勧めもあり、丹の首を送って秦に謝罪する[4]。秦王政は一応燕を許し、喜は遼東でしばらく延命した。 燕王喜33年(前222年)、秦の侵攻を受けて平壌も陥落し、喜は捕らえられて燕は滅亡した。
生涯
脚注^ 姓は『史記』燕世家では周王朝と同姓の「姫姓」としているが、殷墟から発掘された『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』よれば、?姓である。
^ a b c 『史記』燕召公世家
^ a b 『史記』秦始皇本紀
^ a b c d 『史記』刺客列伝
参考文献
『史記』
『史記の事典』(青木五郎
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