燕山君
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燕山君 李?
李朝
第10代国王
王朝李朝
在位期間1495年1月25日 - 1506年9月18日
姓・諱李?(イ・ユン、??)
生年成化12年11月7日
1476年11月23日
没年正徳元年11月6日
1506年11月20日
成宗
廃妃尹氏(斉献王后)
后妃廃妃慎氏

燕山君
各種表記
ハングル:???
漢字:燕山君
発音:ヨンサングン
日本語読み:えんざんくん
ローマ字:Yeonsan-gun
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燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、1476年11月23日 - 1506年11月20日、在位:1494年12月29日1495年1月25日) - 1506年9月2日9月18日))は李氏朝鮮の第10代国王。名は?(りっしんべんに隆)(ユン、?)(以下の記述には代字として「隆」の字を使用する)。第11代国王中宗の異母兄。第7代国王世祖の曾孫で、朝鮮王朝史上前例のない暴君とされる。目次

1 生涯

1.1 誕生から即位

1.2 背徳政治と苛烈な粛清、そして失脚


2 功績

3 家系

4 燕山君が登場する作品

5 脚注

生涯 燕山君日記
誕生から即位

第9代国王成宗の長男として生まれた。母は廃妃尹氏(斉献王后)。生母尹氏は、成宗の最初の王妃であった恭恵王后・韓氏が1474年に死去すると1476年に正妃の位に登ったが、その3年後に王妃から嬪の位に降格された。さらには成宗の顔に傷をつけたため、1482年、王命により賜薬(死薬)を下され28歳でこの世を去った。

その後、長男であった隆は、1483年に7歳で王世子(王太子)に冊封された。1494年成宗が薨去すると、同年12月29日に18歳でそのまま王位に登った。王妃は居昌愼氏

即位当初は、学問を奨励した成宗時代の気品と秩序は維持されていた。燕山君は貧民を救済して、「国朝宝鑑」など多くの書籍を編纂し、女真族などの外勢の侵略を阻んで城を築くなど、安定した政治を行った。
背徳政治と苛烈な粛清、そして失脚

しかし時がたつにつれて、治世4年後から燕山君の悪行が目立ち始めた。燕山君は3度にわたって功臣に対する粛清事件(士禍[1]を引き起こした。また戚臣の任士洪(朝鮮語版)と宦官内侍)の金子猿(朝鮮語版)がそれぞれそそのかして、生母尹氏誅殺に関係した者を捕らえて処刑している(甲子士禍)。

燕山君は全土から女性を徴発し、世祖が建てた円覚寺(現在のタプコル公園)を王の享楽の場である掌楽院に変え、最高学府の成均館妓生らとの遊興の場に変えた。燕山君は多数の妓生を引き連れて遊興にうつつを抜かし、諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑した。臣下たちの怒りが頂点に達した結果、彼らの確執と離反を招く結果となり、1506年9月2日に勲旧派勢力の朴元宗、および成希顔(朝鮮語版)、柳順汀(朝鮮語版)らが企てた宮廷クーデターによって燕山君は失脚し、江華島配流、王位を剥奪されて燕山君に封じられた。この時任士洪、金子猿、更に燕山君の寵姫である張緑水は反対勢力の手によりそれぞれ斬首刑となっている。また正妃慎氏も同時に廃位され、残された王子たちは全て処刑され、更に残された王女たちは全て奴婢にされた。

配流からおよそ2ヶ月後、燕山君は数え年の31歳(満30歳)で死去した。後世の第15代国王・光海君と同様、廃された王であるため、諡号はない。後継には成宗の次男で燕山君の異母弟である晋城大君懌(即位して中宗)が推戴された。
功績

後世、残酷な士禍を行い、堕落した王であるとの批判を受けることも少なくない燕山君であるが、李氏朝鮮音楽、および芸能文化を発展させた、と言う一面もある。学問を奨励し、気品と秩序を維持させ、貧民を救済し、「国朝宝鑑」など多くの書籍を編纂し、女真族などの外勢の侵略を阻んだり、城塞を築くなどの功績を残した一方で、掌楽院を設立し、宮中行事や大宴の際に使用する音楽や芸能を支援し、育成・発展させたのは燕山君の功績であり、その点は評価すべき点と言えよう。
家系

祖父:
懿敬世子 李ワ(1438年 - 1457年)- 追尊王(諡号: 徳宗)

祖母: 仁粋大妃韓氏(1437年 - 1504年)

父: 成宗(1457年 - 1494年)

嫡母: 貞顕王后尹氏(1462年 - 1530年)

実母: 斉献王后/廃妃尹氏(1455年 - 1482年)




正室: 居昌郡夫人/廃妃慎氏(朝鮮語版)(1476年 - 1537年)- 居昌府院君慎承善(朝鮮語版)の娘、夫と共に廃位

大君(1494年[2])- 同年薨去[3]

徽順公主(朝鮮語版) 李寿億[4](生没年不詳)- 両親と共に廃位[4]。具文m正室、後離縁[5]

廃世子 李?(朝鮮語版)(1498年 - 1506年)- 中宗反正後賜死[6]

昌寧大君 李誠(朝鮮語版)(1501年 - 1506年)- 中宗反正後賜死[6]


後宮: 淑儀李氏(朝鮮語版)(生没年不詳)- 李拱の娘。夫と共に廃位[7]。諱は李貞伊[8]

陽平君 李仁(朝鮮語版)(1498年 - 1506年)- 中宗反正後賜死[6]


後宮: 淑儀尹氏(朝鮮語版)(1481年 - 1568年[9])- 尹萱の娘[10]。夫と共に廃位[7]

後宮: 淑儀郭氏(朝鮮語版)(生没年不詳)- 郭?の娘[11]。夫と共に廃位[7]

後宮: 淑儀権氏(生没年不詳)- 権齢の娘[11]。夫と共に廃位[7]

後宮: 淑儀閔氏(朝鮮語版)(生没年不詳)- 閔孝孫の娘[11]。夫と共に廃位[7]

後宮: 淑容 張緑水(生年不詳 - 1506年)- 中宗反正後斬首刑


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