燃えよ剣
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燃えよ剣
著者
司馬遼太郎
発行日1964年3月
発行元文藝春秋新社
ジャンル歴史小説
日本
言語日本語
ページ数326

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『燃えよ剣』(もえよけん)は、司馬遼太郎歴史小説。『週刊文春』誌上で、1962年昭和37年)11月から1964年(昭和39年)3月にかけて連載、文藝春秋新社から1964年(昭和39年)3月に刊行された。

幕末の武装集団、新選組副長・土方歳三の生涯を描く。司馬の代表作の一つとして広く知られ、テレビドラマ・劇場映画・舞台など様々なメディアに翻案されている。
概要

武蔵国多摩郡で「バラガキ」(乱暴者、不良少年)と呼ばれた少壮の時代から、へ出ての新選組結成と維新志士達との戦い、そして江戸幕府瓦解後も官軍に降伏せず戊辰戦争を転戦し、ついに箱館戦争において戦死するまでを扱う。司馬は、新選組時代は京洛で過激志士達を追い回し、戊辰戦争では幕軍残党の将官として戦いに明け暮れる日々を送った土方を、「芸術家が芸術そのものが目標であるように、喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている」と評し、これといった政治思想も持たずにさながら芸術的興奮を求めるように戦い続けたその生き様を「喧嘩師」と形容する[1]

新選組は多数の志士を殺害したことから、維新体制下では「逆賊」と見なされてまともに顧みられず、単なる人斬り集団として貶められることも多かった。しかし子母澤寛の『新選組始末記』(1928年)により再評価の機運が生まれ、『新撰組悲歌』(1934年)などの映画公開、そしてやや時を置いて発表された本作『燃えよ剣』と、同じく司馬の連作短編『新選組血風録』(後述)の登場によって、今日に至るまでの人気が決定づけられた。以降の新選組にまつわる創作作品の多くは、本作と『新選組血風録』で作られたイメージの影響を色濃く受けている[2]
あらすじ

郷里ではその男を「バラガキのトシ」と呼んだ―――武州多摩郡石田村の豪農の子・歳三は、若年の頃より喧嘩と女遊びに明け暮れる日々を送った。剣術は近在の天然理心流の道場「試衛館」で目録を得る腕前で、風体も秀麗な面立ちに切れ長の眼を持つ優男ぶり。他流派とのいざこざが起これば狡猾なまでの作戦をひねり出して敵を木っ端みじんに叩きのめし、一方で良い女を見とめれば夜這いをかけて虜にさせる。喧嘩と女とはどちらも血の匂いがするという意味でこの男にとって同一のものであり、ふつふつと魂をたぎらせるそれらを求め、「鬼足」と言われた早足で里中を奔り回る。剽悍無類の坂東武者の末裔である「土方」の隠し姓は伊達ではなく、三百年来の泰平で惰弱になったそこらの武士など到底及ばぬ糞度胸を持つ若造は、のようにうかつに触れれば怪我をする「バラガキ」として、里で知らぬ者はなかった。

幕末の騒乱はいよいよ頂点に達した。京では刃傷沙汰が横行し、幕府は過激志士達の跳梁に頭を痛めていた。折しも将軍家茂の上洛が予定される時宜にあり、庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れた幕府は、浪士達による護衛部隊「浪士組」を組織する。歳三も近藤勇ら試衛館の門人とともに徴募に応じて京へ上ることとなるものの、ところが京西郊の壬生郷に居を据えるや清河は浪士組を幕府の支配から脱することを宣言する。護衛兵の徴募は擬態に過ぎず、勤王活動家である清河の目的はもとより攘夷の尖兵を集めることにあった。公儀を欺く所業に反発した試衛館の面々は清河と袂を分かつが、さりとて京の郊外で逼塞しているわけにはいかない。知恵を絞った歳三は同じく浪士組を出た元水戸藩士・芹沢鴨と組むことを考え、芹沢の伝手を借りて京都守護職を拝命した会津松平家に運動し、会津候肝いりの治安組織を創設することを発案する。嘆願は受け入れられ、「会津中将様御預かり」の武装警察「新選組」が結成されることとなる。

京坂の剣術道場を触れ回って百人からの隊士を集めた新選組は早速活動を開始し、市中に潜伏する不逞浪士を次々と捕殺した。副長として部隊の構築を一任された歳三は、西洋軍隊を参考に上意下達を鉄則とする組織を作り上げ、その細緻な諜報能力と縦横無尽の機動力は京洛の志士達を震えあがらせた。さらに不行状を口実に芹沢派を粛清すると、歳三は近藤を首領に据えて新選組を鉄の如き集団へと育てていった。やがて京都政壇での地位を追われた長州藩の志士達が天子の略取を目論んでいるという驚天動地の諜報が入り、新選組の武勇を轟かせる絶好の機会と判断した歳三は志士達を襲撃し、これを一網打尽とすることに成功する(池田屋事件)。激昂した長州は軍を起こして京へ殺到するものの幕軍に返り討ちにされ、過激志士達の領袖として仰がれた長州藩は壊滅的な打撃を受けた(蛤御門の変)。一連の事件を経て新選組の名は不動のものとなり、その存在は幕府からも一目置かれることとなる。しかし歳三は変わることはない。富にも出世にも関心はなく、この男が望むのは新選組を最強の集団として育てることにあった。人を斬るためのみに作られた剣はその存在目的は単純だが、余計な目的を持たぬ美しさは男子の鉄腸を引き締める。剣を佩く武士の思想は剣の如く美しく簡潔であるべきであり、ただ粛然と武士としての節義のみ通せばよい。要は一介の「喧嘩師」として生きるということであり、郷里で「バラガキ」と呼ばれた頃と何も変わりはなかった。

が、天下の政情は思いもよらぬ流転を示した。立ち枯れするかと思われた長州は息を吹き返し、あろうことか佐幕派の雄と見られていた薩摩藩薩長同盟を締結させ、公儀の大廈に亀裂が走った。幕府は急速に弱体化し、追い詰められた将軍慶喜大政奉還を表明して政権を朝廷に返上した。幕府は事実上消滅し、新選組は時勢の孤児となった。幕臣待遇となっていた隊は動揺に包まれ、近藤も大いに当惑するが、しかし歳三は時勢がどう転ぼうとも幕府に殉ずる肚を決める。当初は幕府か天朝かなどという頭はなく、行きがかりで佐幕派に立ったまでであったが、今になってこれを捨てれば男がすたる。諸行無常の歴史の中で、万世に易らざるものはその時代時代に節義を守った男の名。たとえ親藩譜代・旗本八万騎がみな徳川家に弓を引こうとも、新選組は最後の一人になっても裏切らぬ節義の集団となるべきであり、将軍が政権を返上しようとも関係はない。男の一生とはそうした美しさを通すためのものと頓悟した歳三は、男子たるものの本懐を遂げるべくその意思を固める。やがて薩長が京に兵を上陸させ、新選組も来るべき戦いで幕軍の一翼を担うこととなる。多摩川べりで喧嘩に明け暮れていた「バラガキ」の小僧が、いまや歴史的な大喧嘩に臨もうとしていた。

戊辰戦争の火蓋が切られた。緒戦は幕軍の優位のうちに運ぶものの、ところが宮廷工作により錦の御旗が上がり、薩長軍はにわかに官軍となる。日和見していた諸侯も錦旗を畏れて薩長に味方し、譜代の中にまで寝返る藩が現れ、幕軍は敗退した(鳥羽・伏見の戦い)。のみならず、朝敵の烙印を捺されるのを恐れた将軍慶喜が戦を放棄し、あろうことか本営の大坂城を抜け出して江戸へ逃げ帰った。やむなく江戸へ移った新選組は「甲陽鎮撫隊」として再編成され、甲州を窺う官軍を討ち払うべく出陣するも、油断から勝機を逃して無残な敗北を喫してしまう(甲州勝沼の戦い)。憔悴した近藤は謹慎恭順を示す将軍に倣って官軍に投降することを考え、歳三の静止も聞かずに出頭し、そのまま不帰の客となる。やがて交渉によって江戸城は無血で開け渡されることとなるが(江戸開城)、歳三はあくまで抗戦を続けることを譲らなかった。その後大鳥圭介ら幕府陸軍残党と共に各地を転戦した歳三は会津に入り、奥州諸国を奔走して諸侯を説得し、奥州同盟を固めさせる。そして江戸を脱走した幕府海軍副総裁・榎本武揚率いる艦隊と合流するものの、諸藩の藩論が次々と軟化して同盟は崩壊。歳三は艦隊とともに風浪を切り開いて北上し、一躍北海道を目指すこととする。

北海道へ上陸した一行はまず函館[注 1]を占領し、函館郊外にある西洋式要塞・五稜郭に本営を築いた。さらには松前城を奪取すると北海道全域を支配下に置き、榎本を総裁とする蝦夷共和国を樹立させた。新政府は速やかな攻伐を決定し(箱館戦争)、函館政府もこれを迎え撃つべく戦闘準備にかかるものの、既に旧幕艦隊の主力艦を失っており、往時は官軍を圧倒した海軍力は大幅に減退していた。一方官軍は最新鋭の装甲艦を購入してその力を飛躍的に増大させており、函館政府軍は艦を乗っ取るべく大胆な接舷攻撃を試みるが失敗に終わる(宮古湾海戦)。しかし酸鼻を極める数多の戦闘で、歳三は天賦の才といえる采配で鮮やかに部隊を指揮し、寡兵をもって官軍の進撃を押し留め続け(二股口の戦い)、函館政府軍唯一の常勝将軍として名を馳せた。しかし官軍の増援部隊は次第に増え、函館政府は戦線を縮小せざるをえなくなり、函館と五稜郭周辺の防衛に徹することとなる。歳三も五稜郭まで退くものの、もはや敗戦は避けられぬことを痛感し、己の最期を考え始める。

ついに官軍は函館になだれ込み、市街は占拠された。軍議では五稜郭に籠もっての籠城戦が説かれたが、歳三はあくまで攻勢を続けることを主張する。無謀と諫める声も無視して小部隊を率いて出撃した歳三は、もはやこの戦闘を最後に死んだ仲間達のもとにゆくことを決意していた。籠城案はその後の降伏を企図したものであり、もう数日迂闊に生きてしまえば自身も降伏者になりかねず、そうなれば地下の仲間に合わせる顔がない。敵砲が豪然と火を噴く中、歳三は新選組の残党とともに吶喊攻撃を敢行するものの、しかし寡勢の不利を覆すことは叶わなかった。覚悟を決めた歳三は、参謀府に斬り込みをかけんと単身敵陣に突撃し、官軍の一斉射撃を浴びて絶命する。

ひたむきなまでに剣の美しさを求めて生きた男は、屍を敵に向けることによってその最期を飾り、喧嘩師としての生涯に終止符を打った。
主な登場人物
土方歳三
本作の主人公。新選組副長。武州多摩郡石田村の豪農の子だが、「土方」という先祖伝来の隠し姓を持ち、は「義豊」(よしとよ)。見た目は役者のような優男だが、剣術の腕前は義兄の佐藤彦五郎が世話役を勤める天然理心流の道場・試衛館で目録を得、さらに家伝の「石田散薬」を売り歩く行商の傍ら近在の道場を回って他流派の技をも身につけた技量を持ち、少年時代は茨のように棘だらけでうかつに触ると怪我をする「バラガキ」と仇名された。


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