熊野
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この項目では、和歌山県・三重県にわたる地域について説明しています。その他の用法については「熊野 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

熊野地方(旧牟婁郡・錦を含み龍神村を含まない)のデータ
日本
地方近畿地方東海地方
人口272,936人
(国勢調査、2010年)
面積3140.39km2

人口密度86.9人/km2
熊野(旧牟婁郡)の範囲青岸渡寺那智滝那智勝浦町熊野本宮大社田辺市熊野灘紀北町熊野川紀宝町新宮市三段壁白浜町

熊野(くまの)は、紀伊半島南端部の和歌山県南部と三重県南部からなる地域。

旧国では紀伊国南部にあたり、上古の熊野国と大概一致する。熊野三山田辺市熊野本宮大社新宮市熊野速玉大社那智勝浦町熊野那智大社)を中心とする熊野信仰の中心地として知られる。
範囲
旧牟婁郡

熊野とは、近世牟婁郡のことであり、明治以降 (1889年?1933年) の和歌山県西牟婁郡東牟婁郡、三重県北牟婁郡南牟婁郡の4郡を指すとされる[1][2]。現在の市郡ではこの4郡に田辺市新宮市尾鷲市熊野市を加えた4市4郡(4市10町1村)となる[3]

ただし市郡による定義に従えば、市町村合併によりその範囲は本来の牟婁郡とは若干相違する。旧日高郡龍神村が田辺市龍神村となり、このエリアに含まれるようになった一方、旧北牟婁郡錦町度会郡紀勢町錦を経て大紀町錦となり、このエリアには含まれなくなった。

旧牟婁郡の面積は3000km2を超え、佐賀県よりも広いが、人口は30万人未満と少なく、国政選挙では、衆議院小選挙区三重県第4区和歌山県第3区のそれぞれ一部にすぎない。
旧牟婁郡の市町村


三重県

度会郡大紀町錦地区

北牟婁郡紀北町

尾鷲市

熊野市

南牟婁郡御浜町

南牟婁郡紀宝町


和歌山県

新宮市

東牟婁郡那智勝浦町

東牟婁郡太地町

東牟婁郡古座川町

東牟婁郡串本町

東牟婁郡北山村

西牟婁郡すさみ町

西牟婁郡白浜町

西牟婁郡上富田町

田辺市龍神村を除く)


口熊野と奥熊野

紀州藩では、熊野(牟婁郡)を和歌山から近い順に「口熊野」「奥熊野」と呼んでいた。周参見(現:すさみ町)には口熊野代官所、木本(現:熊野市)には奥熊野代官所が置かれそれぞれ両熊野の政治的中心となっていた。ただし、両熊野の境界は一定のものではなく、『紀伊続風土記』(1839)ではおおむね現串本町と那智勝浦町、田辺市中辺路町と本宮町の間を境界としているが、『南紀徳川史』(1901)では熊野川を境界としている。
その他の範囲

大化の改新以前には、西は現在の田辺市田辺地域(2005年合併以前の市域)を含まなかったという説がある[4]。東の境は現在とほぼ同じだった。

みなべ町日高郡に所属するものの文化・経済の面で田辺市・西牟婁郡との繋がりが深く、「『熊野』地域新ナンバープレート導入推進協議会」への参加が検討されている地域に含まれている[5]

奈良県吉野郡十津川村下北山村上北山村についても旧牟婁郡との繋がりが深く、十津川村にある玉置神社は熊野三山の奥の院と呼ばれ、下北山村・上北山村はかつて紀伊国牟婁郡であったとされている[6]

和歌山県東牟婁振興局内の熊野エリア観光推進実行委員会は、東牟婁郡・新宮市・田辺市本宮町(2005年まで東牟婁郡本宮町)を熊野としている[7]。これは振興局の管内に本宮町(熊野本宮大社がある)を加えた地域である(≒東牟婁地域)。

熊野簡易裁判所熊野区検察庁は、三重県の熊野市と南牟婁郡を管区とする(≒南牟婁地域)。
呼称
語源

伝承では次のような由来があるとしている。

古事記』によると、神武天皇大熊に会ったためと言われている[2]。ただし、地名起源神話として疑問視もされている[3]

紀伊続風土記』によると、熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく、あるいは死霊がこもる場所とも解釈される。

地名の語源については諸説ある。

折口信夫は「クマ」とは田の神への供物であるとする[8]

近藤善博は「クマ」とは供えるまたは定めるという意味の奠(テン)のことであり「クマノ」は奠の場所の意味であるとする[8]

松村武雄は「クマ」は精米(くましね)に由来しており供物の供米(くまい)の意味であるとする[8]

鎌田純一は「クマ」は神の意味(九州で「神代」をクマシロと読む場合と同じ)で 「クマノ」は神の住む地の意味であるとする[8]

出雲国の熊野(現 島根県松江市熊野)の名が移されたとの説[2]

類称
牟婁
旧牟婁郡。基本的に熊野と同じ範囲を表す。ただし、地域全体の地名というよりは、和歌山県・三重県の各々で県土の一部を表すのに使われる。
紀南
紀伊国南部。同様に両県の一部を表すことが多い。また、和歌山県側ではその範囲に揺らぎがあり、三重県側では旧北牟婁郡を含まず旧南牟婁郡に限られる。
東紀州
紀伊国東部。熊野(牟婁)の三重県部分。
歴史
近代まで(明治以前)
熊野国

日本書紀』神代紀(上)によると火の神カグツチを産んだときにイザナミは命を落とし紀伊国熊野の有馬村に葬られたという[8](現在の花窟神社に葬られているとされる)。

また、『古事記』神武東征の段及び『日本書紀』磐余彦の東征の段によると神日本磐余彦(のちの神武天皇)は兄とともに東方遠征に出て熊野の神邑に上陸した[8]神武東征)。熊野で怪しい熊の妖気に当たり気を失ってしまうが、天照大神から剣を得て目覚め、八咫烏の道案内で宇陀に入り橿原宮で天皇として即位したという[8]。この熊野の神邑を新宮市とみる説がある[8](ただし異説あり)。

上古には熊野国があり、成務期までには熊野国造が置かれるようになったが、大化の改新後の孝徳期 (645年?654年)、紀伊国に牟婁郡として併合された。併合前の熊野の範囲は、西は田辺市田辺地域を含まず、東は現在と同じだったが、併合時に、田辺にあった牟婁郷と合わせて牟婁郡とし、その一方でのちの北牟婁郡志摩国英虞郡に移された[4]
紀伊国

熊野三山の歴史は非常に古い(熊野本宮大社の創建は崇神期とされる)が、907年宇多法皇の熊野御幸を契機に、皇族貴族の間に熊野信仰が広まってきた。中世になると、貴族に代わり武士や庶民が熊野詣をするようになった。

天正10年(1582年)に、のちの北牟婁郡が紀伊国牟婁郡に移された。

江戸時代には熊野を含む紀伊国全域が、紀州徳川氏紀州藩となった。
近・現代(明治以後)

廃藩置県後は複数の県(1871年より和歌山県と度会県1876年より和歌山県と三重県)に分割され、1889年、郡も各県2郡ずつ計4郡に分割された。

1936年吉野熊野国立公園設置。
原発反対運動

1967年中部電力による芦浜原子力発電所(計画地は現在の南伊勢町と大紀町にまたがる)の建設計画に反対する非常に大きな運動が起こったため、当時の三重県知事は「終止符宣言」を出し、原子力発電所の計画をいったん停止させた[9]

1971年、熊野灘に面する井内浦(いちうら)での原子力発電所建設の計画が発覚[9]。井内浦は、熊野市中心部から北東に約3キロほどの位置にあった。なお、井内浦での建設が意図された背景には、この前に発表された、芦浜原子力発電所の計画への反発が激しかったことがあげられるという主張もある[9]

中部電力は県と市に正式に協力を求めたが、熊野市の6つの漁協は全て、漁業に深刻な影響を与えるとして猛反対を行った[9]。当時の熊野市長は原発について、市議会の判断に委ねるとしたが、市議会は、計画発覚から5ヶ月後、市民からの原発拒否請願を全会一致で採択した[9]

だが、中部電力は計画を諦めず、地元の人々に原発建設のメリットを説き続けるなどしたため、誘致の再検討を求める陳情が増え、当時の有権者の半数(約1万人)に近い署名が寄せられるなどした[9]

1980年、熊野市議会は原発建設について、「調査研究機関の市議会への設置」を採択し、誘致を進める動きを示した[9]。このため、原発反対派は、推進派の市議の自宅に押しかけ、徹夜で説得を試みるなど、運動を力押しで推進しようとした[9]

1986年チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、この影響で、熊野の原発建設についても、反対派が主流となっていった[9]

1987年、市議選で反対派14人が当選して過半数となり、5回目となる原発の拒否決議をするなどした結果、市総合計画から「原発」の項目が削られ、原発建設はついに頓挫した[9]

2000年、中部電力は芦浜原子力発電所の計画を取り下げた[9]。同社は2014年の朝日新聞の取材に対して、井内浦での原発建設計画について「現在はない」としている[9]
世界遺産登録後

2004年世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」登録[10]

市町村合併により、1957年、北牟婁郡錦町度会郡紀勢町錦(現・大紀町錦)に、2005年日高郡龍神村が田辺市龍神村になった。
地域
北牟婁地域
尾鷲市・北牟婁郡・度会郡大紀町錦
荷坂峠以南、矢ノ川峠以北の地域で、最も北東に位置する。


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