熊野三山本願所(くまのさんざんほんがんじょ)は、15世紀末以降における熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)の造営・修造のための勧進を担った組織の総称である。
熊野三山を含めて、日本における古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われていた。しかし熊野三山では、これらの財源はすべて15世紀半ばまでに実効性を失った(→#前史)。
それらに替わる財源を確保し、熊野三山の造営・修造に寄与したのが、15世紀後半以降に成立した熊野三山本願所で、類似するほかの寺社の本願所と比べて際立って規模が大きく、一山ごとに独自の性格を持っていた(→#熊野三山本願所の成立)。熊野三山本願所は、各地に送り出した一部の熊野山伏・熊野比丘尼が募った勧進奉加を熊野へ送り届けさせること、また、熊野への巡礼者からの散銭を得ることを通じて財源を調達し、堂舎の建立・再興・修復を行う造営役としての役目を果たした。近世初期には新宮を首座として熊野本願九ヶ寺と称する本願仲間を形成し、連携して職務の遂行にあたった(→#活動と組織)。
15世紀後半以降、本願所は造営・修造を担う組織として機能していたが、熊野三山では本来衆徒が独占していた社寺の縁起や仏事・神事といった社役にも深く関与するようになり、三山の運営に大きな役割を担うようになっていった。しかしながら、ほかの寺社と同じく本願[注釈 1]と社家[注釈 2]の間には緊張関係があった(→#社役と本願)。17世紀以降には、造営・修造と社役との聖俗両面における本願の役割を否定し、社内における主導権を奪い返そうとする社家と、一山における地位を守ろうとする本願との間で相論が繰り返された(→#社家との相論)。18世紀半ばには、近世以降の社家の経済的再建と江戸幕府・紀州藩の宗教統制を背景にした社家の反撃により、本願の退勢は決定づけられるに至った。しかしながら、単なる造営役を越えて年中行事や祈祷に関する役目を担っていた本願を、社家は完全に排除することはできず、明治の神仏分離まで存続した(→#衰退と終焉)。 表1 熊野三山の造営料国・造営料所の事例[2]年代造営料国注記 本願所が成立する以前、中世における熊野三山の財源とされたのは、熊野山(本宮・新宮)・那智山へ寄進された三山経営そのものにかかわる各々の荘園[3]、熊野御僧供米
前史
12世紀末から13世紀初紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐白河院による寄進
1209年阿波新宮・本宮の復興・再建
1241年安房新宮造営料国
1259年遠江・美濃那智造営料国
1265年越前
1289年伯耆
13世紀末ごろ遠江・安房「伏見天皇綸旨」所掲
12世紀初め、白河院は三山経営と神社造営のため、元永元年(1119年)に紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の5か国から封戸50烟を熊野山に施入した(『中右記』元永元年9月11日条)[5]が、大治2年(1127年)に「熊野本宮御封十烟」の代わりに紀伊国「牟婁郡芳益村見作田伍町」の所当官物が便宜補填され、これがのちに荘園に転化したと推定されている[7]。
なお、造営料国の寄進の早い例は12世紀末から13世紀初めにかけてと見られ、13世紀初めには熊野三山検校であった長厳に阿波国が寄進されている(『頼資卿熊野詣記』建仁2年〈1202年〉)[8]。承元3年(1209年)に新宮・本宮が火災に見舞われた際には、再建のためにやはり阿波国が宛てられた[9]が、阿波国はこの時期を下ると見られなくなる[8]。
13世紀半ば以降、越前国(文永2年〈1265年〉)、伯耆国(正応2年〈1289年〉)などの例が見られるが、頻繁に史料中に現れるのが遠江国と安房国である[8]。遠江の早い例では、正元元年(1259年)に美濃国とともに那智の造営料国に宛てられた。一方で安房はもっぱら新宮の史料にのみ現れ[10]、仁治2年(1241年)の『百錬抄』所掲の例[11]や13世紀末にさかのぼる例(「伏見天皇綸旨」〈1291年 - 1296年ごろ〉所掲)[10]が見られる。遠江と安房はしばしばセットで造営料国に宛てられ、「後光厳天皇綸旨」(文和3年〈1354年〉)やその翌年付の鎌倉幕府の御教書にその名が見られる[10]。
しかしながら、こうした造営料国・造営料所に依拠した造営・修造は15世紀に終わりを迎える。承久の乱(承久3年〈1221年〉)以降、新たに地頭となった御家人の支配が各地の荘園に及ぶようになったほか、14世紀半ば以降、各種の史料に「遠江国国衙職」「安房国々衙職」といった表現が増え始めることに見られるように、造営料国が国衙職の得分に矮小化していった様子が窺われる[10]。室町時代から戦国時代にかけては在地土豪の支配下に荘園が収められたことで、各荘園からの熊野への年貢は一部の上分米を納めるのみになったが、それさえも滞りがちとなった[12]。新宮では徳治2年(1307年)に社殿を焼失したため、造営料国に宛てられた土佐国からの収入により再建を図ろうとしたが、妨害を受けたために充分な収入を得られなかった。新宮は、後光厳天皇の綸旨を得て足利義詮に徴収を委ねなければならなかったが、その実施には困難を伴った[13]。貞和元年(1345年)には、那智尊勝院領のあった伊豆国の荘園からの年貢が11年にわたって未達であったため、熊野三山検校によりあらためて安堵されなければならなかった[14]。
こうして造営・修造の財源として機能しえなくなった造営料国・造営料所[10]に代わり、三山の造営・修造の財源とされたのが、棟別銭や段米・段銭であった。棟別銭徴収の早い例は、貞治5年(1366年)ごろに播磨国松原荘(石清水八幡社領)などで新宮造営のために徴収された例が見られる[10][15]ほか、『熊野年代記』には三山造営のための「諸国棟別」(応永33年〈1426年〉)、那智造営のための京・和泉・河内での徴収(文明10年〈1478年〉)といった例がある[16]。