熊谷組野球部チーム名(通称)熊谷組
加盟団体日本野球連盟
加盟区分企業チーム
創部1948年
廃部1993年
チーム名の遍歴熊谷組 (1948 - 1993)
本拠地自治体東京都
都市対抗野球大会
出場回数34回
最近の出場1993年
最高成績優勝
日本産業対抗野球大会
出場回数17回
最近の出場1973年
最高成績優勝
社会人野球日本選手権大会
出場回数2回
最近の出場1989年
最高成績準優勝
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数※出場資格なし
熊谷組野球部(くまがいぐみやきゅうぶ)は、東京都に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。 1948年、大手ゼネコンの熊谷組が創設[1]。熊谷組は、それ以前にも国民野球連盟(1947年に1年間だけ存在したプロ野球組織)の熊谷レッドソックスのスポンサーとして運営にも携わっていた。 1950年に都市対抗野球に初出場し準優勝となり、7回目の出場となった1957年の都市対抗野球で初優勝を達成した。その後、1960年の第31回大会と1966年の第37回大会で優勝を果たしている。 同社ではバスケットボール部とならぶシンボルスポーツ的な役割を果たし、都市対抗野球大会では若手社員がはしごに乗って応援する独特の応援が行なわれた。 しかし、平成に入ってからの長期不況が影響し多くの企業がスポーツ事業から撤退する傾向に入ったあおりを受け、1993年に熊谷組も「体質改善3ヵ年計画」を発表し、その一環として野球部・バスケットボール部の休部が発表され、1993年度シーズン終了をもって休部となり、その後正式に廃部届が日本野球連盟に提出された。ただし、熊谷組のホームページでは休部中としている。 その後、主力選手たちが1994年にクラブチームとして『熊球クラブ』を結成した。
概要
主要大会の出場歴・最高成績
都市対抗野球大会 - 出場34回、優勝3回(1957、1960、1966年)
社会人野球日本選手権大会 - 出場2回、準優勝1回(1987年)
JABA東京スポニチ大会 - 優勝5回(1973、1975、1980、1986、1990年)
JABA静岡大会 - 優勝1回(1971年)
JABA京都大会 - 優勝3回(1972、1988、1990年)
JABA長野県知事旗争奪野球大会 - 優勝1回(1961年)
JABA日立市長杯選抜野球大会 - 優勝1回(1989年)
JABAベーブルース杯争奪大会 - 優勝3回(1957、1967、1968年)
JABA新潟大会 - 優勝1回(1953年)
主な出身プロ野球選手
杉浦竜太郎(投手) - 1951年に広島カープに入団
河内忠吾(投手) - 1956年に大阪タイガースに入団
森永勝也(外野手) - 1958年に広島カープに入団
高林恒夫(外野手) - 1961年に読売ジャイアンツに入団
長野哲(投手) - 1968年ドラフト5位で大洋ホエールズに入団
西田暢(内野手) - 1969年ドラフト3位で中日ドラゴンズに入団
末永正昭(内野手) - 1970年ドラフト2位で阪神タイガースに入団
江本孟紀(投手) - 1970年ドラフト外で東映フライヤーズに入団
山本和生(内野手) - 1972年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団
加藤安雄(捕手) - 1975年ドラフト4位で阪急ブレーブスに入団
伊藤敦規(投手) - 1987年ドラフト1位で阪急ブレーブスに入団
横谷彰将(外野手) - 1987年ドラフト5位で横浜大洋ホエールズに入団
宮里太(捕手) - 1988年ドラフト2位で横浜大洋ホエールズに入団
佐藤和弘(外野手) - 1989年ドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団
鈴木哲(投手) - 1989年ドラフト2位で西武ライオンズに入団
弓長起浩(投手) - 1991年ドラフト3位で阪神タイガースに入団
波留敏夫(外野手) - 1993年ドラフト2位で横浜ベイスターズに入団
遠藤政隆(投手) - 1993年ドラフト3位で中日ドラゴンズに入団
中山雅行(投手) - 1993年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズに入団
在籍していた主な選手
古田昌幸(内野手) - 野球殿堂表彰者(2010年)
小林秀一(投手) - 愛知学院大4年次の1973年のドラフト会議において読売ジャイアンツからの1位指名を拒否し熊谷組野球部に入部。