熊谷空襲
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熊谷空襲

1945年昭和20年)8月15日
場所埼玉県熊谷市

衝突した勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指揮官
近藤兼利[1] ネーサン・ファラガット・トワイニング[2]
戦力
迎撃戦闘機 5機[3]または10から15機[4]ボーイングB-29、89機[5]
被害者数
民間人死者 234[6][注 1]-266人[7]
被災人口 15,390人[6][注 1]
焼失家屋 3,630戸[6][注 1]なし[3][8]

熊谷空襲(くまがやくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)8月15日0時23分から1時39分にかけてアメリカ軍により行われた埼玉県熊谷市に対する空襲である[9]。太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内における最大規模の空襲であり、熊谷市は県内では唯一の戦災都市に指定された[10]。「熊谷爆撃」とする資料もある[9]
背景
アメリカ軍の作戦計画

8月13日アメリカ軍第20航空軍司令部は、第58第73第313第314第315爆撃航空団に対し山口県光市にある光海軍工廠、同岩国市にある麻里布操車場大阪府にある大阪砲兵工廠秋田県秋田市にある日本石油製油所群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市の2都市に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した[11]。本作戦と並行して連合国と日本との間で終戦交渉が進められていたが、第20航空軍司令官は「交渉は日本側によって遅延させられている」と見なし、期限間近に迫るまでに最大限の航空兵力を発進させる準備を進め、諸作戦を8月14日から8月15日にかけて実施するように命じた[12]

4施設と2都市が第1攻撃目標として選定された理由については、4施設に関しては重要な正照準攻撃目標のうちこれまで作戦が成功していなかった点[11]、2都市に関しては攻撃目標として設定された180の小都市のうちこれまで作戦が成功していなかった点が挙げられ[11]、光海軍工廠と麻里布操車場と大阪陸軍工廠に対しては昼間の攻撃計画が[12]、日本石油製油所と伊勢崎市と熊谷市に対しては夜間の攻撃計画が立案された[12]。作戦当日の気象状況が芳しくない場合、昼間作戦は翌日に延期されるが、夜間作戦については気象状況に関わらず決行される予定となっていた[12]

このうち、熊谷市は中島飛行機の部品製造の重要拠点の一つ、または同社製品の重要な分配基地の一つとして見なされていた[10][12]。戦後、米国戦略爆撃調査団によりまとめられた調査報告書には次のように記されている。熊谷は前橋高崎大宮伊勢崎館林桐生尾島足利などの小都市と共に中島飛行機の航空機生産にとって必要不可欠な要素を含んでいる。これらの小工場は、その中心となる太田小泉の大規模な最終組立工場の破壊にもかかわらず、航空機生産の継続を可能とする。生産の多くは大規模な部品工場に寄与する小工場において行われるため、これらの都市を攻撃目標とする価値は、流通される小部品や部分組み立て品の分散または複製を阻止するという事実によって強固なものとなるだろう。熊谷は中島飛行機の部品製造ネットワークの中枢を成している。市内の多くの下請け工場は、下記の識別可能な主要部品工場に寄与しているものと考えられる[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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