熊谷直貞_(熊谷氏祖)
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この項目では、熊谷氏の始祖で平安時代末期の武将について説明しています。安土桃山時代武士については「熊谷直貞 (戦国武将)」をご覧ください。

 凡例熊谷直貞
時代平安時代末期
生誕大治元年(1126年
死没康治元年(1142年[1]
別名通称:二郎大夫[2]
戒名徳寿
氏族熊谷氏
父母父:平盛方?熊谷直孝?
母:平貞叙娘
養父:小沢宗実、養母:青木家継娘
兄弟平直頼、直貞、平親家、平時直
妻久下直俊娘
子藤原殖次室、直正、直実、直常、直道、相馬頼種室
養子:俊則
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熊谷 直貞(くまがい なおさだ)は、平安時代末期の武将。通称は二郎大夫。熊谷氏当主であり、熊谷氏の始祖にあたる。子に熊谷直実など[2]
出自

直貞の出自は正確なところは不明で、諸家に伝わる各種の系図によると、大きく分けて3つの説が伝えられている。1つは、桓武平氏一族の平直方の嫡男・平維方の嫡男・平盛方の子とする説[3]。2つ目は、宣化天皇の後裔で丹治姓・私市氏の熊谷直季が熊谷氏を名乗った初代であり、その孫の熊谷直孝の実の子が直貞という説(この説では直貞は初代ではなく第4代とされ平盛方は関係がない)。3つ目に、2説を折衷した、丹治姓の直孝の継嗣として平氏の一門である平直貞が養子に迎えられたとする説である[4]
略歴

安芸熊谷氏に伝わる熊谷系図などによると、父・平盛方は北面武士であり、平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑[5]され、赤子であった直貞は、乳母に抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延びた。成長後、所領もない寄寓の身だったが、熊退治[6]で名を上げ、所領を得たという。別の説では代々続く領主であるとして、そのような伝説の欠落している系図もある。

当時の武蔵国には武蔵七党と呼ばれる武士団が割拠しており、直貞は私党(私市党)の一員もしくは私党の旗頭であったなどの伝承がある一方、上述のごとく、熊谷氏は丹治姓であり、秩父の丹党と同族とする伝承もある。熊谷郷は私党からも丹党から隔絶しているが、距離的にはちょうど両党の中間にあたり、独立系の弱小領主として、ある時は私党と、またある時は丹党と行動を共にしていた。この頃の家紋はまだ対鳩でなく、赤地水車、浪丸の四つ目結びを旗印にしていたという。

17歳で死去[7]したといわれ、子の直実は2歳で久下直光に養われることになった。戒名は徳寿。
系譜

父:平盛方
- 阿多美盛方

母:平貞叙の娘[8]

養父:小沢宗実 - 小沢大夫

養母:青木家継の娘[9]

直貞は次男であり兄弟には直頼・親家・時直がいた。

妻:久下直俊(成木大夫)の娘[10]

生母不明の子女

女子:藤原殖次の室

長男:熊谷直正 - 近江熊谷氏の祖

次男:熊谷直実

三男:熊谷直常 - 円秀

四男:熊谷直道 - 直景

女子:相馬頼種の室


養子

男子:熊谷俊則 - 直貞の従兄平時方の三男[11]


脚注^ 生没年は不明だが、平盛方を父とする系図においては、父盛方が処刑された年、息子直実の生年、死亡時の年齢などから計算して、大治元年(1126年)生まれ、康治元年(1142年)に死去したとするものが一般的である。異説として没年に仁平元年(1151年)11月8日、仁平3年(1153年)3月18日の両説が伝えられる。
^ a b 今井尭ほか編 1984, p. 335.
^ この説によれば鎌倉幕府執権北条氏と同族である。
^ この3説それぞれの中にも、系図によってかなり大きく異なった多様な異説が存在する。
^ あるいは佐渡に流罪ともいわれる。実際に直貞には弟が3人もいたという系図もある。
^ 熊退治の話は苗字にこじつけた創作と思われる。
^ 死亡時の年齢は17歳説の他に18歳、57歳、67歳、86歳の各説が伝えられる。


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