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凡例熊谷 直実
熊谷之次郎直實像/北村西望作ブロンズ製(JR熊谷駅北口)
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕永治元年2月15日(1141年3月24日)
死没建永2年9月4日(1207年9月27日))[1][注釈 1]
改名直実→蓮生(法名)
別名次郎(通称)
墓所熊谷寺、光明寺、高野山
幕府鎌倉幕府
主君源頼朝→頼家→実朝
氏族熊谷氏
父母父:熊谷直貞
子直家、実景
熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。
熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫[注釈 2]・維時(これとき)の6代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではない[3]。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。
『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている[4]。
なお、熊谷市では、通称を組み合わせた「熊谷次郎直実」の名で紹介している[5][6]。 武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。幼名が弓矢丸という名のとおり、弓の名手。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。 源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。 寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参陣。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入するも平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。 『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を「まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな(卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか)」と呼び止めて一騎討ちを挑む。直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった。直実が「物その者で候はねども、武蔵国住人、熊谷次郎直実(大した者ではないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ)」と名乗った後、敦盛は「名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らふずるぞ(私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう)」と答えた。これを聞いて立派な武士だと感動した直実は一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に自分たちの味方の手勢が迫ってくる。たとえ自分が少年を逃がしたとしても、どのみち生き延びることはできないだろうと考えた直実は「同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕り候はめ(同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう)」と言って、泣く泣くその首を斬った。 その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥[注釈 3]・平敦盛と判明、齢十七[注釈 4]だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという[7]。これ以後直実には深く思うところがあり、出家への思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。 文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし拒否したため、所領の一部を没収された(当時鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)。大井教寛 建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』)。 この争いの背景には、直実が抱えていた立場の弱さがあった。
生涯軍扇を持つ熊谷直実と平敦盛
前半生
源平の戦い
波際を敗走する平敦盛永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より呼び止める熊谷直実
伯父との相続争い